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2014年10月5日 末竹十大牧師

「赦しの現実化」

マタイによる福音書18章21節〜35節

 

「あなたが、あなたの奴隷仲間を憐れむことは必然ではなかったか、わたしがあなたを憐れんだように。」と主人は言う。「あなたの奴隷仲間」と言う。同じ主人に仕える奴隷同士、互いに思いやることは必然であろうと言うのである。同じ主人から、憐れみを受けたのだから、同じように奴隷仲間を憐れむことは必然であると。

しかし、我々人間は必然であるとは思わないのだ。自分が誰かに負債を負っているとしても、自分に負債を負っている者は別なのだと考えるのである。何故なら、自分が貸してやっているのだから、取り立てるのは、自分の裁量なのだと考えるからである。自分の負債は、赦されればそれで終わりだと考える。そして、自分に対して負債がある存在は、それとは別だと考えるのである。これは、分かる気がするが、主人が言うのは、あなたの奴隷仲間ということである。つまり、たとえあなたが誰かに貸しがあるとしても、あなたに貸した主人であるわたしの奴隷なのだから、あなたを赦したならば、すべてが赦されているのだと言うのである。良く考えれば、そうである。

わたしが主人に負債を負っているとき、その負債の中には、わたしが誰かに貸している負債も含まれているのだ。それゆえに、わたしが主人から負債の返済を免除されたならば、わたしが貸しているものも同じように免除されていることになる。わたしから免除されているのではなく、わたしが負債を負っている主人から免除されていることになるのだ。ということは、自分と同じ奴隷仲間から取り立てるこの男は、二重に取り立てていることになる。主人が赦したものを取り立てているのである。そして、結局、自分自身を赦さない状態に置くことになるのだ、自分が。これが、人間の罪の状態である。

赦しは、赦す人において現実となる。赦さない人間は、わたしたちの主人である神が赦したもののなかから、負債を取り立てていることになるのだ。そして、自分自身を赦されない存在とすることになるのだ。これが、人間の愚かさである。神の奴隷仲間だと思わない人間の愚かさである。あなた自身が、神の奴隷だと思っていなくても、神が造り、神が支配しているのだから、誰であろうと同じ奴隷仲間である。同じ奴隷仲間を、憐れむことができない人間は、自分自身の赦しを拒否していることになるのだ。主人である神が現実化した赦しが失われてしまうのだ。自分で自分の首を絞めていることになる。

それゆえに、イエスはペトロの質問に答えて言う、「七の七十倍赦せ」と。これは490回ということではないのだ。七という回数で考えているペトロに、七という数字の完全性を教えるために、こう語っているのだ。七度赦すということであれば、七回まで数えながら、我慢しているであろう。しかし、七という数字は完全数である。それゆえに、七度赦すとは完全に赦すということなのである。数えているうちは完全に赦していない。七回まで待っているだけである。待っている間も、赦してはいない。赦さないということを遅延させているだけである。引き延ばしているだけである。490回であれば、誰も数えないであろう。そして、忘れるのだ。

赦しという言アフィエイミが、手放すことであるということも同じ意味を語っている。数えているうちは、手放していない。裁くことをしっかりと握りしめながら、待っているのだ。あと六回、あと五回、あと四回と数えながら。これは、最初から赦さないことと同じであり、決して赦していないことなのである。しかし、我々は手放せない。何故なら、自分が赦していないことで、その人を自分の支配下に置いておくことができるからである。数えている間も、その人は自分の支配下にあるのだ。こうして、我々は自分の支配を広げようとするのである。そして、神の支配の外に、自分の支配領域を作ってしまう。それは、神の支配に入らないことであり、神の支配領域の外にいるのだから、神の赦しも拒否しているのである。裁きを拒否することは、赦しも拒否することである。赦しだけ得るということはないのだ。裁きがなければ赦しはないからである。赦しは、裁かれている存在を赦すのであり、裁かれていない存在は赦しを必要としない。赦すお方も必要としない。それゆえに、裁きを拒否することは、神を拒否することである。

我々が自らの罪を赦されるということは、裁きがあったということである。裁きの中で赦しがあったということである。しかし、我々は赦されたのだから、裁かれなかったと考えてしまう。自分は裁かれなかったがゆえに、義人だと考えることにもなる。そのとき、我々は正しい人間として、他者を裁くことに陥るのである。裁きが継続していることを忘れているからである。

赦しは、裁きに従って、裁かれなければならない人間を赦すのだから、赦しの中に裁きが継続している。裁きの下で、赦しがあるのだ。それゆえに、自分が赦されたように、他者を赦さない存在は、裁きの下にあることが現実化するのである。他者を赦す存在は、赦しの下にあることが現実化するのである。赦しの現実化は、自分自身が裁きの下にあることの継続の上に成り立つのである。裁きの継続がなければ、赦しの継続もない。裁きの現実化がなければ、赦しの現実化もない。裁きの現実化からあなたを守る赦しの現実化がなければ、裁きだけが現実化することになるのだ。これが、今日のイエスのたとえが語っていることである。

従って、我々は裁きの現実化の下にあること、罪人であり続けていることを忘れてはならない。罪の自覚こそ、赦しの現実化である。罪の自覚こそ、赦しの現実化を与えるのである。使徒パウロがローマの信徒への手紙724節で言う如く、「わたしは惨めな人間。わたしをこの死の体から誰が救うであろうか。」との自覚が重要なのだ。自らは救われ難い罪人であることを自覚したとき、神の前にひれ伏す存在とされる。そして、赦しの中に入れられているのである。そのような人は、使徒パウロと共に叫ぶであろう。「しかし、神に感謝。わたしたちの主イエス・キリストを通して。」と。罪の自覚の底で、救われ難い自分自身をどうにもしようがないとの絶望に至ったとき、あなたは救われている。しかし、自己弁護し、わたしは悪い人間ではないと、自己保身に走るならば、神はあなたを救いようがないのだ。神は、ご自身の裁きを受け入れる存在を赦し給うのだから。何故なら、裁く神だけが赦すことができるからである。従って、神の裁きに身を委ねた者を神は救い給う。

それゆえに、今日の男が赦されないのは当然である。自らが裁き主になってしまったからである。それゆえに、彼は主人の奴隷仲間ではなくなった。そして、主人の奴隷として与えられた憐れみとしての赦しを失ってしまったのである。ワンと吠えて、肉を落としてしまった犬のようである。これが我々人間の愚かさだとイエスは語っておられる。我々は、この言葉を如何に聞くのか。自分自身が、この男のようであることを受け入れる者は、ただ神の前にひれ伏すであろう。受け入れない者は、永遠に裁き続け、自ら神の支配の外に出てしまうであろう。そして、永遠に失われてしまうのである。

我々がそのようになって欲しくないがゆえに、イエスは語り給う。そして、今日、ご自身の体と血を与えてくださる。あなたが、罪人であり、救いがたい人間であるがゆえに、イエスはご自身の体と血を与え給うのだ。我々は救いがたい自分自身を認めることにおいて、イエスの体と血をいただくことができる。イエスが差し出す体と血が、あなたの罪を語っているからである。あなたの罪ゆえに、十字架に架けられたのだと、語っているからである。あなたがわたしを十字架に架けたのだと、イエスの体と血は語っている。このパンを食べる度に、この杯を飲む度に、主の死を告げ知らせるのだとパウロが語ったとおりである。

今日もキリストの体と血に与り、主の死をもたらしたわたしを認め、救いがたいわたしを神の前に差し出そう。そのあなたを主は受け入れ、救ってくださる

祈ります。