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2014年10月12日 末竹十大牧師

「調和」

マタイによる福音書20章1節〜16節

 

「わたしが善き者であるがゆえに、あなたの目は悪であるのか。」とぶどう園の主人は言う。「わたしの気前のよさをねたむのか。」と訳されている言葉の原文はこうである。善き者である主人と、目が悪であるあなたとの対比が語られている。主人が善き者であるという理由で、最初に来た人たちの目が悪である。これは良く分からない言葉である。善と悪は対立するが、この対立を生み出すのは善という概念が生じるときだと語っているかのようである。プラスの概念が生じるとき、マイナスの概念が生じる。確かに、相対立する概念は何か善き規定が生じるときに、反対概念が生じることを必然的に起こす。何故なら、善いという概念は悪という概念を含んでいるからである。比較概念は、比較対照する相手がいてこそ、生じるからである。単に事実を述べるのであれば、そこには比較は生じない。それはただそこにあるだけである。しかし、評価を含む概念は、反対の評価概念をも含んでいるのである。善いがあれば、悪いがあるのは必然である。

では、善いという評価をしなければ、悪は生じないだろうか。評価としては生じない。今日のイエスのたとえにおいても、最初に来た人たちにとって、最後に来た人たちに支払われた一デナリオンは、この主人の評価となった。たった一時間しか働いていない人に一デナリオンを与えるとは、これは気前の良い人だと。12倍とは言わないが、少なくとも倍はくれるだろうという期待が生じたのである。ところが、同じく一デナリオンであった。それゆえに、この主人は不当なやつだという批判の心が生じた。最初に良い人という評価が生じたがゆえに、最後には悪しき人という評価となる。ところが、この評価は最初に来た人たちの「悪」だとぶどう園の主人は言うのである。何故なら、彼らはぶどう園の主人と「一日一デナリオンから調和した。」と語られているからである。この調和は、最初の人にしか語られていない。後の人には、「義しいものを与える」という宣言しか語られていないのである。最初の人には、「働きと共に、一日を、デナリオンから、調和して、彼らを派遣した、彼のぶどう園へ」と言われている。主人は「働きと共に」と調和したと言うのである。つまり、「働きに応じた一日の賃金が一デナリオンだと調和した」という意味である。この後では、「働きと共に義しさを与える」とは言われていないのだ。この義しさとは、主人が義しいと考える義しさである。この義しさを他者が批判することはできないのだ。義しさは比較の言葉ではなく、絶対的な言葉だからである。それゆえに、主人の宣言しか語られていないのである。主人が義しいことを行うと宣言しているのである。

一方、最初の人との間には、働きに応じた賃金における調和が語られている。これが、肝心なところである。「調和する」と訳した言葉は、新共同訳では「約束する」と訳されている。契約と言っても良いであろうが、互いに同じことを約束することである。しかし、あえてここで「調和する」という言葉が使われているのは、契約の意味、約束の意味を相互性において示すためであろう。調和するという言葉スュンフォネオーは、「共に声を出す」というギリシア語であり、マタイによる福音書1819節で「心を一つにして」と訳されていた言葉である。ここでは「約束した」と訳されているが、同じ言葉である。主人が一方的に約束したのではなく、最初の人と「一日一デナリオン」で合意したということである。互いに「一日一デナリオン」と共に声を出したということである。それが調和である。共に声を出して、別々の声にならず、一つの声になる。そのとき、我々は調和している。しかし、別々の声になるならば、調和しているのではなく、自己主張だけで、どちらかの声が勝つことになる。これは調和とは言わない。一つの声として溶け合うことが調和である。どちらかの声が抑えられてしまう場合、あるいはどちらかの声に従わせられる場合、調和ではなく、抑圧である。主人は、雇い人に「一デナリオン」を強いたのではない。雇い人も「一デナリオン」と同じ声を出した。両者が「共に声を出した」ので、調和したのだ。この調和を崩すのは、自己主張の声である。善悪の判断が入り込むときに、自己主張が生じる。そして、調和が崩される。

ここで妬みと訳されている事柄は、原文で見た通り、「悪」である。主人を善きものと評価した最初の雇い人のうちに悪が生じたのである。最後に来た人から二番目に来た人に対しては、主人は宣言しているだけである、「義しいことを与える」と。それゆえに、彼らには評価は生じなかった。基準がないからである。しかし、最初に主人と調和した雇い人には基準があった、「一日一デナリオン」という基準が。この基準から、主人を善きものとして評価することが生じ、彼のうちに悪が生じたのである。不平を言う最初の雇い人たちに向かって、主人は言う。「あなたに不当なことはしていない」と、この言葉は「不義を行っていない」という意味である。つまり、義しいことを行うという言葉に否定の接頭辞がついた言葉なのである。わたしとあなたは調和したのだから、義しいことをわたしは行っているのだとの宣言である。不義を行っていないとは、わたしが調和を崩したかのように批判するあなたが、調和を崩している不義な存在なのだとの反批判も含まれている。調和するということの責任を負わないことへの非難であろう。

天の国とは、神の意志に調和する国である。それが神の意志に従うことである。それは、神の意志を尊重することであり、神が為すことが神の意志だと調和することである。たとえ、自分にとって不義だと思えることであろうとも、神の意志がなるのだと受け入れることである。わたしは神と調和したのであり、他者と比較して、自分が義しいと主張することは、神の意志への批判となってしまうのである。これが人間の罪である。アダムとエヴァの罪である。彼らは、蛇に唆されて、神を批判することに陥ってしまったのだ。自分たちが神と同じになることを妬んでいるので、善悪の知識の木から取って食べるなと命じたのだと、神を批判する心が生じた。そのとき、我々は悪に陥ってしまったのである。

神の意志に従うということは、起こってくる出来事を神の意志として受け止め、引き受けて行くことである。そのとき、我々は神の意志に調和している。しかし、自分にとって不義だと思えると批判する心が生じるとき、我々は悪に傾いている。何故なら、神が善きお方であるとの判断が生じて、自分に不義を行う神は悪であるとの判断に陥るからである。神が悪であると判断することで、自分が不義を受けていることを理解する。自分が義しいことを行っているのに、不義が与えられるのは、神が悪であるからだと理解しなければ理解できないようになるからである。自分が不義であるとの認識が生じるとしても、応報思想となってしまう。

神は義を行う。我々人間がそれを不義だと批判することはできない。何故なら、この世のすべては神の支配の下にあるからである。神はこの世のすべてに義しいことを行うのである。たとえ、わたしに不義だと思えることであろうとも、神は義しいことを行っていると受け入れることである。それが神との調和である。

我々が判断することが、常に自分の価値基準に従った判断でしかないことが、神を批判する悪が生じる原因である。我々が罪人であるがゆえに、神の意志を受け入れることができないのだ。

そのような人間の悪をすべて引き受けてくださったお方、キリストの十字架が生じたのは、我々の悪ゆえである。我々が悪であるがゆえに、キリストは十字架に架けられた。神の意志によって十字架に架けられた。十字架を神の意志として、キリストは引き受け給うた。キリストの十字架によって、我々は救われたのだ。このお方を仰ぐ者は、神を批判することはない。神と調和するのだ。わたしの悪を引き受けてくださったお方を「わたしの主」と告白するのだから、共に声を出して。そのとき、あなたは天の国に生きている。あなたのうちなるキリストと共に声を出して讃美しよう、神は義なるお方と。

祈ります。