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2014年10月19日 末竹十大牧師

「不適合の適合」

マタイによる福音書21章33節〜44節

 

「家を建てる者たちが不適合とした石。それが隅の頭へと生じさせられた。」と詩編11822節の言葉を引用して、イエスは言う。不適合の石が、適合の石とさせられるということは、基準が違っているということである。適合としたのは誰なのか。ここでは暗に神がそうしたのだと語られているのである。我々人間の判断とは反対の基準を神がもっているということであろうか。そうであれば、我々の判断の反対を選択していれば、神に従うことになるのだろうか。そうではない。我々が不適合とすること自体が間違っているということである。何故なら、たとえ自らの判断の反対を選択しようとしても、その選択はあくまで我々人間の判断である。結果的に、不適合を作り出してしまうのである。我々人間は、常に適合か、不適合かを作り出してしまう。適合を選ぶことは、不適合を選ぶことでもある。その場合、我々が適合を選んでも、不適合が生じているのだから、結果的に不適合が適合となってしまうのである。何故なら、我々が適合とすること自体が間違いだからである。つまり、我々人間が選ぶこと自体が間違いなのだ。我々人間は、神の事柄を理解していない。にも関わらず、神と同じ次元で考えて、判断していると勘違いしているのである。

神は、お造りになったものすべてをご自身の用いたいように用いる。それが、神である。我々が、神に用いていただくことができるのは、何も選択しないときである。ただ自分自身を神に献げるときである。そのとき、神が用い給う。しかし、我々が用いられるようにと差し出すときには、用いられると思って差し出している。それゆえに、我々の判断が入り込んでいる。人間の判断が入り込んでいるのだから、神の判断ではない。我々は判断する側にはいないということを受け入れなければならないのだ。そのとき、我々は神が用いようと用いまいとに関わらず、神の判断に委ねて、ただ差し出すのである。

ぶどう園の農夫たちに、実ったものを渡すようにと求めたぶどう園の主人の求めに、農夫たちは応じなかった。応じないということにおいて、主人の求めに従っていない。彼らは、主人からぶどう園を借りているのである。それゆえに、主人が求めたものを差し出す義務がある。にも関わらず、彼らは自分たちが差し出したくないがゆえに、断るだけならまだしも、遣わされた奴隷たちを殺してしまうのである。彼らは、自分たちが搾取されていると感じているのだろうか。それが奴隷殺害の理由になっているのである。如何なる理由があろうとも、殺人は神の意志に反している。それゆえに、農夫たちに正当性はない。彼らが、自分たちの判断によって、主人の息子を殺すことにおいても、主人の求めに応じない姿が、殺害と強奪に現れている。どうして、このようになってしまうのであろうか。

もともと、ぶどう園は農夫たちのものではない。主人が費用をかけて、整備したぶどう園なのだ。このぶどう園を強奪するために、農夫たちは主人の派遣した奴隷たちと息子を殺害する。彼らが不適合だと判断して、主人を閉め出したのだ、ぶどう園から。それゆえに、その主人が農夫たちを殺害する。この殺害は正当なのだろうか。ここにも、如何なる理由があろうとも殺害は神の意志に反するという定式が適用されるのではないのか。しかし、そうならない。何故か。この主人が、神だからである。

では、神ならば、殺害しても良いのか。いや、神は殺害しない。殺害は人間がするのである。そして、殺害すること、閉め出すことにおいて、人間は自分自身を主人のぶどう園から閉め出し、自分自身を殺害するのである。不適合と見なした彼らが不適合となる。不適合とされた息子が適合となる。これが、隅の頭の言葉が語っていることである。そうでなければ、殺された息子のことを、隅の頭として語る聖書の言葉と同定することはできない。隅の頭とされることが、イエスの復活を指しているのでなければ、この引用聖句の意味はないのだ。殺害されたならば、息子はそれで終わりなのだから。

しかし、このたとえには復活は語られていない。息子を殺害した農夫たちが殺害され、「他の農夫たちに彼はぶどう園を貸すだろう。その人たちは、それらのカイロスの中で、彼に実りを渡すであろう。」と言われているだけである。この他の農夫たちが罪赦された者たちだというわけではないし、復活した息子であるということでもない。たとえと引用聖句とは一致していない。

さらに、隅の頭が石であることから、石の上に落ちる者と石が上に落ちる者の運命が語られている。これも良く分からない言葉である。引用聖句との関連は何もない。この石が、不適合として捨てられるほど小さくとも硬く、小さくとも重いということが語られているだけである。

復活が語られていないのだから、たとえの結末と引用聖句とは一致しないし、石の硬さと重さの言葉も一致しない。しかし、イエスの復活から読み直すときにこそ、これら一致しないものが一致するのである。たとえも引用聖句もその後の言葉も含めて、イエスの復活から理解されるようになるとすれば、たとえだけではないイエスの聖書理解がここで語られており、語るイエス自体がすべてを一致させるお方であると言える。イエスが語ることによってこそ、これらの断片が一つの体として機能し始めるのである。

こう考えてみれば、関連性のなさそうな事柄すべてを包含するイエスの生がここで示されていると言えるであろう。そこにこそ、イエスの福音がある。不適合の適合がある。何故なら、一致しないものが一致するというお方がイエスだからである。不適合が適合するお方がイエスだからである。我々人間が適合、不適合を決めてもなお、それらを一致させるお方がイエスなのである。そして、適合であろうと不適合であろうと、適合させるお方がイエスであり、神である。そこにこそ、神の意志が貫徹されていると言えるのである。

我々が神の意志が貫徹していると認識することが重要なのではない。我々には、適合も不適合も認識できない。我々が不適合としても、適合としても、結果的には神がすべてを適合とし給うのである、隅の頭として。しかし、これは万人救済を意味しているのではない。ただ、神の意志だけがなるということを意味しているのだ。人間の判断、人間の理解、人間の選択はことごとく間違っているということを意味しているのだ。この言葉を正しく聞くことこそが、我々が福音を聞くことである。我々が義しくないことを認めることこそが福音を聞くことである。福音の中でこそ、義しくないわたしが神の赦しを受けるのだから。

石の上に落ちてつぶれることも、石が上に落ちてつぶれることも、福音である。この石によって、わたしが打ち砕かれ、わたしはそれを受け入れるしかないからである。受け入れるとき、わたしは受け入れたものに生かされる。わたしが不適合とされても、それを受け入れるならば、神が適合とし給う。神が適合とし給うことを受け入れるならば、わたしは不適合でも適合である。ただし、この不適合を受け入れることが、適合とされるためであれば、不適合である。不適合であることをただ受け入れ、その通りであることを認めるとき、わたしは自分に絶望し、神に祈るであろう。そして、受け入れたように受け入れられるのである、神に。

我々が判断し、捨て去るものを神は適合として受け入れ給う。そこまでで終わらなければならない。我々が適合としたものが神によって捨て去られるのか否かは神がご存知である。すべてが受け入れられるのだと我々が決めることは、我々が判断する適合になってしまうのだから。あくまで、神に従うことだけが、我々人間がなすべきことである。ここにおいてこそ、我々はイエスのたとえを生きることができるのである。

捨てられたイエスを神が生かし、救いを確立してくださったと信じること。これだけが我々がなすべきことである。そのとき、我々は何ものも差別することなく、ただ神が与え給うものを受け、神に差し出すべきものを差し出すであろう。あなたのために、死んでくださったお方ゆえに。

 祈ります。