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2014年10月26日 末竹十大牧師

「自由な人間」

ヨハネによる福音書8章31節〜38節

 

「もし、わたしの言、わたしのロゴスのうちに、あなたがたが留まるならば、真実に、わたしの弟子として、あなたがたは生きる。そして、あなたがたは認識するであろう、真理を。そして、真理は自由にするであろう、あなたがたを。」とイエスは言う。これは、イエスを信じたと言われている多くの人たちに向かって語られた言である。彼らが真実にイエスを信じていないことが、この後イエスの口から語られる。「わたしのものであるロゴスは、あなたがたのうちに場所を持っていないからだ。」と。

「わたしのロゴスのうちに留まる」とは、「わたしのものであるロゴスが、あなたがたのうちに場所を持っている」ということだと言い換えられているのである。キリストのロゴスが場所を持つとはどういうことであろうか。それは、キリストのロゴスが我々のうちですべてとなることである。我々のロゴスではなく、キリストのロゴスが我々のすべてとなることである。そうなってこそ、我々は神のロゴスであるキリストのうちに生きることが可能となるのである。キリストのうちに生きる存在は、キリストのロゴスのうちに包まれている。キリストのロゴスがその人のすべてとなっている。それゆえに、その人は自分のロゴスが場所を持っていない存在となっている。その人は、自分の考え、自分の思い、自分の感情に支配されず、キリストの考え、キリストの思い、キリストの霊に支配されている。そのとき、我々はキリスト者と呼ばれるのである。

ということは、我々が未だ自分の考え、自分の思い、自分の感情に支配されている以上、キリスト者とはなっていないのだ。我々はここでイエスが批判している多くの人たちと同じなのである。自分から自由になっていない。自分に縛られている。自分から解放されていない。

しかし、この自分は、罪に支配された自分である。神に支配された自分であるならば、キリストの言のうちに留まっているからである。そして、真実にキリストの弟子として生きているのである。我々は、未だキリストの弟子として真実に生きてはいない。未だ、闇の支配に服している存在である。闇に縛られている存在である。人殺しであるとイエスが言う通りである。我々は、人殺しであることを忘れてはならない。カインの末裔であることを忘れてはならない。キリスト者として生きていないことを忘れてはならない。それが、キリストのロゴスのうちに留まることなのである。それこそが、真理である。そして、真理は我々を解放する、我々自身から。

自由な人間とは、自らがキリストをすべてとする存在になっていないことを認める存在である。自らが不自由であることを認める存在である。自らが他者を縛る存在であることを認める存在である。そのとき、我々は自由である。何故なら、自分自身を真実に認めているからである。我々が自分を正しく認識したとき、認識したものから解放されるのだ。これは地上においても真理である。我々が認めるものを、我々は支配することができるのである。認めない限り、逆に支配されている。自分自身を正しく認識することこそが、キリストのロゴスのうちに留まることなのである。

思い悩んでいるときには、我々はどうしてこうなっているのか分からずにいる。しかし、思い悩みの原因を認識したとき、その原因に支配されていた自分を知る。そして、逆に支配することが可能となる。そして、原因から解放される。同じように、今日イエスが語る言に場所を持たせるならば、我々は自分自身が支配されていたものを認識するであろう。真理を認識し、認識した真理がわたしを自由にするのである。真理とは、ありのままであることだからである。事実を事実と認めることだからである。

我々は不自由である。自分の考えに縛られ、他者の考えを認められない。自分の思いに縛られ、他者の思いを否定しようとする。自分の感情に縛られ、他者の感情を悪だと認識する。認識すべきは、自らの悪である。自らの罪である。自らの罪の現実である。人殺しの現実である。

我々は、人殺しである。現実に殺人を実行していなくとも人殺しである。「カインがどうしてアベルを殺したのか分からない。殺さなくても良いのに。」と思うが、自分の中に生きているカインを認識していない。殺さなくても良いのにと言う人間が「馬鹿」と言い、「愚か者」と言ってしまう現実を、イエスは他の福音書で指摘していた。心の中でそう思うだけでも殺人と同じなのだと、イエスは語っていた。それは、火の地獄に投げ込まれることだと。確かに、他者を殺してはいなくとも、「馬鹿」と思い、「愚か者」と思うとき、我々は自分自身のうちで火の地獄に投げ込まれている。そこから脱け出すのは困難である。そこにキリストのロゴスが働かない限り、我々自身では到底脱け出せないのだ。キリストのロゴスが働くとき、我々は自分自身が人殺しであることを認めるのである。そして、脱け出すことが可能となる。

それゆえに、キリストは言う。「わたしのロゴスのうちに留まれ。」と。わたしのロゴスがあなたのすべてになれと。あなたのうちで場所を与えよ、わたしのロゴスにと。真理を語っているキリストの言に耳を開かなければならない。そうでなければ、我々は不自由のまま、闇に縛られて苦しむのだ。救いようのない状態に、自分自身を置いてしまうのだ。罪の奴隷であり続け、闇の中に留まり続けるのだ。

キリストは真理を語っている。我々が人殺しである真理を。我々が決してキリストを信じてはいないという真理を。我々はキリストを信じてはいない。キリストを十字架につけたのだ。キリストを死に引き渡したのだ。キリストを殺したのだ。それが我々自身である。あなたがキリストを殺したのだ。この真理を認めるとき、あなたはキリストのロゴスのうちに留まっている。この真理があなたを解放する、あなた自身から。あなた自身の欺瞞から。あなた自身の罪から。

我々の真理は十字架である。我々のロゴスは十字架である。我々の自由は十字架にある。一人ひとりが十字架に留まるとき、我々はキリストの弟子である。我々のうちに十字架が場所を占めているならば、我々はキリストに解放された神の奴隷である。キリストに解放された奴隷が、キリスト者である。自分で解放される者はいない、我々は自分の奴隷だからである。自分の力の無さ、罪深さ、愚かさを認めるとき、自分の奴隷から解放され、キリストの奴隷となる。キリストに解放されたキリストの奴隷となる。そのとき、あなたはこの世の現実に支配されることなく、真実に生きることができる。真理が指し示すあなた自身の罪を認める者は、解放されている。キリストのロゴスのうちに生き、キリストのロゴスに場所を空けている。キリストのロゴスがあなたのすべてとなっている。あなた自身の罪を語るキリストのロゴスを喜びとする。あなたを人殺しと言うキリストのロゴスを感謝する。あなたを不自由な人間だと語るキリストのロゴスを喜んで聞く人間となっている。そのとき、あなたはキリスト者であるとの認識はない。むしろ、罪人であるとの認識があるだけなのだ。従って、キリスト者であると思っている人間はキリスト者ではない。キリスト者と言われるような者ではないと認識しているとき、あなたはキリスト者である。キリストに死んでいただく価値などないと認識しているとき、あなたのために死んでくださったキリストに場所を空けている。わたしの価値など何もないと認識しているとき、わたしはキリストの価値の中に生きている。そして、自由である、キリストと同じように。あなたのうちにキリストが生きているのだから。キリストのロゴスが生きているのだから。

今日共にいただく聖餐を通して、我々のうちにキリストが生きてくださる。あなたをご自分のものとして生かしてくださるキリストが生きてくださる。感謝して受け、キリストに生きていただこう、罪深きわたしのうちに。不自由なわたしのうちに。キリストに自由にしていただこう、闇に縛られているこのわたしを。神のロゴスであるキリストがあなたのうちで、真理として働いてくださるように。

祈ります。