2014年11月2日 末竹十大牧師
「天の国の所有」
マタイによる福音書5章1節〜12節
「天の国は彼らのものである」とイエスは言う。現在形で、今現在彼らの所有であると言うのだ。天の国、神の国は将来やって来るのではないのか。我々は御国を待ち望んでいるのではないのか。現在は、この地上の国で生きているが、寄留者として生き、本国に帰ることを待ち望んでいるのではないのか。そうである。しかし、本国を持っているということは、天の国が本国であり、天の国を所有しているのである。天の国の国籍を所有しているのである。そうでなければ、帰ることを待ち望むことはないのだから。
今日、全聖徒主日として守る礼拝において、我々は何を祈るのであろうか。先に召された者たちが、天の国にいることを信じて、彼らの安らぎを祈るのであろうか。いや、彼らはすでに天の国を所有して生きたのだ。それゆえに、地上の生を終えたあと、彼らは本国にいる。信仰を与えられ、信仰を受け取り、信仰に従って生きたがゆえに、彼らは信仰のうちにすでに天の国を持っていたのだ。我々が祈ったからと言って、彼らが天の国に生きるようになるわけではない。彼らに安らぎが与えられるわけではない。彼らは、地上にいても、天の国を所有していたのだから。彼らに与えられた信仰が彼らを天の国に生きるように生かし、信仰において天の国に今現在彼らは生きているのだ。信仰を受け取らない者は、信仰のうちに生きていないのだから、今現在も天の国に生きているわけではない。そして、将来も。
我々は、すべての聖徒たちが天の国に生きていることを信じている。信仰によって、我々も天の国に生きているからである。地上にあって、天の国を生きた者たちが、地上を離れて、今天の国に生きている。地上にあって、天の国を拒否した者たちは、地上を離れて、今天の国を拒否している。自ら、天の国の外に生きている。それゆえに、天の国は所有している者を受け入れる国である。天の国は、所有していない者が拒否する国である。そして、自ら天の国の外に出てしまうのである。
天の国を所有している者は、今現在も天の国に生きている。今現在、苦しみがあろうと迫害があろうと、欠乏があろうと、悲しみがあろうと、天の国に生きている。それゆえに、すべてを引き受けて生きていくのである。苦しみから逃げ、悲しみから逃げ、迫害から逃げる者は、天の国を拒否しているのである。何故なら、この地上にあって、信仰によって天の国に生きているならば、すべては神の働きであることを認めているのだから。すべてが神の働きであると信頼しているのだから、すべてを引き受ける。与えられたものを感謝して受ける。苦難をも恵み給う神に従う。それがキリスト者である。
信仰のうちにいないならば、キリスト者ではない。苦難から逃げているならばキリスト者ではない。悲しみを悲しむだけならば、誰にでもできる。キリスト者は悲しみを引き受け、悲しみの中に働く神の恵みをいただくのだ。苦しみの中にも、迫害の中にも、神の恵みが生きていると信じて生きるのだ。そのとき、その人は天の国に生きている。天の国を所有している。所有している天の国がその人を受け入れ、はぐくみ、生かす。所有していない者は、苦難から逃げ、悲しみから逃げ、受け入れないことで、自らの国籍を受け入れない。天の国が本国であることを生きていない。それゆえに、今現在も天の国に生きることはできない。
現在を如何に生きるかが我々キリスト者の課題なのだ。いや、我々は未だキリスト者になってはいない。目先のことだけを取り繕い、見えているところが上手く運べばそれで上手く行ったと思い込む。将来を見ようとしない。永遠の将来を見ようとしない。そして、天の国を所有している平安の中に生きていない。それゆえに、自分のためにしか生きない。他者のために生きることがないのだ。それではキリスト者ではない。ルターが「キリスト者の自由」ラテン語版で言う通りである。「キリスト者は自分自身に生きないで、キリストと自分の隣人《のために》生きる。そうでなければ、キリスト者ではない。信仰によってキリストに生き、愛によって隣人に生きる。信仰によって自分を越えて、上の方へ神へ連れ行かれる。しかし再び愛によって自己を越えて、隣人の下に降下する。それでも常に、神と神の愛にとどまっているのである。」と。「それでも常に、神と神の愛にとどまっている」という事態が、天の国の所有なのである。天の国を所有しているがゆえに、キリストと隣人のために生きるのがキリスト者なのである。
今日、我々が記念している聖徒たちすべては、天の国の所有を生きたのだ。死んだら皆聖徒になるわけではない。聖徒として生きていてこそ、死んでも聖徒であると言うべきである。我々が地上に生きている間、我々は聖徒であろうか。聖徒とは如何なる存在なのだろうか。それが、今日イエスが語る言なのである。聖徒は、美しく生きている存在である。神に捕らえられているからである。貧しく、苦しみの中を生きている存在である。しかし、神が励まし、立たせ給う存在である。迫害され、排除される存在である。しかし、神が義しいお方であることを信じて、引き受けて生きる存在である。そのように生きる者こそ、キリスト者として生きようとしている存在である。未だキリスト者ではなくとも、すでにキリスト者とは如何なる存在であるかを知っている者である。キリスト者になり得ていない自分自身を常に断罪している存在である。キリスト者が如何に美しく生きるのかを知っている存在である。それゆえに、その人はキリストを持っている。自らのうちにキリストが形作られることを生きている。罪深い存在である自分自身のうちにキリストが生きてくださっていることを知っている。そのような存在はすでにキリストを所有し、天の国を所有している。天の国に向かって、自分が完全にキリスト者になることを望みつつ、地上を歩んでいる。そのように召してくださった神に従って生きている。そのような者は、天の国の所有を生きているのだ、地上の生において。
我々の肉は、神に背いて生きようとするが、我々は信仰において、聖霊を与えられ、神の思いを教えられる。教えられた神の思いに従おうとする思いが起こされ、天の国に向かって生きて行く。地上にあって、信仰によって天の国を生きていく。これが聖徒である。これがキリスト者である。これがキリストの十字架を自らの罪の贖いとして生きる者である。キリストの十字架がその人のうちで神の力となる者である。
生けるキリストの十字架が、その人の生を規定している。罪を断罪し、罪を赦し、罪人を生かす十字架がその人の生の基準である。それゆえに、キリストと同じように、隣人のために生きるキリスト者とされるのである。このようになる者として召された一人ひとりを覚え、彼らが所有していた天の国に生きていることを覚えよう。我々もまた、天の国に生きるべく、所有している天の国を生きていこう。あなたのうちにキリストが形作られるように生きていこう。あなたを受け入れてくださった神に従って、隣人を受け入れて生きて行こう。そのために、今日キリストはご自身の体と血を、我々に与えてくださる。
キリストの体と血は、我々をキリスト者にする力がある。キリスト者として生きていく力となり、我々のうちで働く、キリストの体と血。キリストを受け入れ、キリストのうちで生きる者として生きていこう。天の国を所有しているわたしを生きてこう。先に逝きし者たちと共に、天の国に国籍のある者として、生きていこう。あなたは天の国を所有しているのだ。天の国を生きることができるのだ。感謝して受け取り、生きてこう。天の国の所有を。
祈ります。
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