2014年11月9日 末竹十大牧師
「大いなる掟」
マタイによる福音書22章34節〜40節
「これら二つの掟のうちに、律法全体がぶら下がっている。そして、預言者たちも。」とイエスは言う。「ぶら下がっている」と言う。それは、これら二つの掟が大きいがゆえに、ぶら下がっている律法全体も預言者たちも大いなる掟の下にあるという意味である。「最も重要な掟」と言う場合、並列的に並んでいるものの中から最上級のものが選ばれるという意味になる。ところが、「大いなる掟」であれば、それのみが大いなるものであり、それ以下のものをぶら下げているということになる。イエスが語るのは、大いなる掟である。それゆえに、ぶら下がっていると言うのだ。
また、「基づいている」ということであれば、土台であり、そこから発生しているということであろう。ところが、「ぶら下がっている」ということは、発生の根源ではなく、その傘下にあるということである。同じようなことだと思えるが、その違いは大きい。何故なら、傘下にあるということは、傘下に従えるもの自体がぶら下がっているもの全体を包んでいるのである。土台であれば、ひとつひとつがそこから発生しているのであり、確かにそれぞれのうちにあるかのようである。ところが、包んでいるものは、それぞれのうちにあり、それぞれが生きる空間を造っている。その空間の中で、律法全体が生きており、預言者たちも生きていると、イエスは語っているのである。従って、包むものこそ、大いなる掟なのである。包んでいるものに、すべてが還元されていくということである。包んでいるものがすべての掟も預言者たちも生かしているのである。包んでいるものはすべてを集約するものである。それゆえに「大いなる掟」なのである。
しかし、それが二つあるということはおかしなことではないだろうか。「第一」、「第二」を重要さの大小と考えるからである。イエスはこう言っているのだ。「しかし、第二はそれに同じである。」と。「同じである」ということは、「同じように重要である」ということではなく、第二は第一に同じであるという意味である。つまり、第一、第二と呼んではいるが、結局同じことなのだとイエスは言うのだ。「あなたの神、主を愛する」ことと「あなたの隣人を、自分のように、愛する」こととが同じであると語っているのである。二つに思える掟の両者は同じことを語っているのだとイエスは言うのだ。「あなたの神、主を愛する」ことが、「大いなる、第一の掟」と言われ、「しかし、第二はそれと同じである。あなたの隣人を愛すること、あなた自身のように。」と言われているのだ。従って、神を愛することと隣人を愛することが同じなのだと、イエスは語っている。大いなる第一の掟自体が別様に語られているのであり、大いなる掟としての「これら二つの掟のうちに、ぶら下がっている、律法全体と預言者たちは」と言ったのだ。二番目だから、一番目よりも価値が低いということではない。二番目も一番目と同じ掟なのだ。では、二番目と言わなければ良いのに、どうして二様に語られているのだろうか。
神を愛することと他者を愛することは方向性において二様であるが、一つであるということである。神を愛するとは、他を愛することであり、自分を愛することを一番にしてしまう人間が、他者を愛することを一番にすることなのだ。神という究極的な他者を愛する者は、自らを愛することを優先させず、自らの隣人を愛するのだ。それが、神に愛されている自分自身として愛することなのだ。そうなっていないならば、究極的他者、絶対的他者である神を愛していないということだと、イエスは言うのだ。我々は、このイエスの言を聞かなければならない。
まずは神を愛せば良いのだという言い訳をさせないために、イエスは第一と第二に分けて語った。二つが同じであると。神を愛するならば、隣人を愛する。それが律法全体と預言者たちが語っていることなのだ。しかし、この順序は逆にはならない。神を愛することが隣人を愛することという順序は変わらない。隣人を愛することが神を愛することなのだとは言われていないのである。これを我々は倒錯してしまう。隣人を愛するならば、神を愛することになるのだと言ってしまうならば、人間を第一にしてしまう。それゆえに、イエスは第一を神を愛することと言い、第二を隣人を愛することと言ったのだ。この順序を逆にしないために。
神を愛することを第一にするならば必然的に隣人を愛するのであり、隣人を愛することを第一にするならば必然的に人間を愛してしまうのが、罪人である人間の本性なのだ。人間の罪性を知っているがゆえに、イエスは第一と第二として語ったのだ。これは順序であり、大きさの違いではない。重要さの違いでもない。神と人という二様の方向に向かう同じ一つの掟なのだ。同じだが、必然的順序に従って、神から人へという愛が生じるのである。神から出発しないならば、我々は人間愛に満たされてしまう。人間愛に満たされた存在は神を忘れてしまう。自らが支配する人間になったかのように考えてしまう。そして、神を捨てるのだ。我々が第一と第二を同時に満たすのは、第一を第一として生きるときである。従って、神を愛する者は、隣人は二番目なのだとは言わないのだ。神を愛することが隣人愛へと現れる。それこそが今日イエスが語っていることなのだ。
ファリサイ派もサドカイ派も、イエスを試すことを求めた。それゆえに、彼らは神を愛していない。その現れが人を非難し、貶め、神から引き離すことになっているからである。これは第二を第一にしている姿である。何故なら、人間を第一にする者は人間を批判するからである。実は自分を第一にするのである。反対に、自分を第一にせず、神を第一にしている者は、隣人を第一にする者なのである。この定式は崩されない。隣人を自分の都合の良い人間に限定する者は、神を第一にしていない。何故なら、神は人間を分けていないからである。神が造られた人間は、人間の都合で分けられる存在ではない。すべての人間を神が造ったのだから、神において一つである。この神のうちに生かされているすべての存在が、神にぶら下がっているのだ。ぶら下がっている者同士が、隣人を二つに分けて、自分の都合で「この人は隣人だ」、「あの人は隣人ではない」と言ってしまうのだ。ぶら下がっている者が、ぶら下がっている者を分けることはできない。どちらも神にぶら下がっているのだから。従って、我々は隣人を分けることはできない。そして、人間を第一にすることはできない。神を第一にする者こそ、すべての人間を隣人として愛する者である。
他者を試して、貶めようとはしないのが、神を第一にする存在である。神を愛する者は、必然的にすべての人間を愛する。この定式を語り給うた主イエスが、十字架に架けられたのは、人間を第一としていたファリサイ派、サドカイ派たちからであることを忘れてはならない。神を第一にしていると言いながら、隣人を分ける者は、神を第一にしていない。大いなる掟である「神を愛すること」を第一にしていない。他者を自分よりも第一にしていない。それゆえに、我々は神を第一にする者ではないと言われても仕方ないのだ。すべての人間が人間を第一にしているからである。それが罪人だからである。我々が、神を第一にするように造り替えられなければならない。神を第一にするキリストが、我々のうちに形作られることによって、我々はキリスト者となって行くのである。
大いなる掟こそがすべてをぶら下げる掟である。神を愛することこそが、大いなる掟、すべてをぶら下げる掟なのだ。この掟を生きるために、イエスはご自身を十字架に架ける罪人の罪を引き受けたのだ。このキリストの十字架に自らの罪を認める者を、ご自分と同じく神を第一とする者へと形作ってくださるのだ。あなたが神を第一として、大いなる掟を生きる者でありますように。罪深いあなたのために、十字架に架けられたキリストが、あなたのうちに生きてくださるように。キリストこそ、十字架において、第一を第一とし、必然的に第二を満たしたお方なのだから。このお方によって、我々も神の愛の必然を生きる者でありますように、大いなる掟の下で。
祈ります。
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