日本福音ルーテル教会 希望教会 証する信徒・教会になろう















 ルーテル教会は、マルチン・ルターの宗教改革により生まれたキリスト教プロテスタント教会です。人は信仰のみにより神より義とされ、恵みのみ、信仰のみ、みことばのみという改革の精神を大切にします。

Copyright(C)Kibou Church,Aichi Japan All Rights Reserved.

2014年11月16日 末竹十大牧師

「愚かさと賢さ」

マタイによる福音書25章1節〜13節

 

「それで、天の国は同じである、自分自身のランプを取って、花婿の出会いへと出てきた十人の乙女たちと。」とイエスは語り始める。天の国と十人の乙女たちが同じだと言う。そのうちの五人が愚かで、五人が賢いと言われている。ということは、天の国はこの二つの集団が構成しているということになる。しかし、イエスの語りの終わりにおいては、「わたしはあなたがたを知らない」と主人が言う言葉で終わる。この終わりでは、天の国に入ることができない乙女たちが愚かな乙女たちであることが語られているようである。それなのに、何故に、はじめにイエスは言うのか。「天の国は同じである、十人の乙女たちと。」と。ここでは十人が天の国であると言われているのではないのか。それなのに、いや五人だったのだということになる。それならば、最初から賢い乙女たちと同じなのだと言えば良いのだ。ところがイエスは十人と言っていた。その後で、五人の愚かな乙女と五人の賢い乙女の話に入るのである。その終わりは、天の国は賢い乙女が入るところであると言わんばかりである。果たしてそうなのだろうか。

賢い乙女しか入ることができないのが天の国であるとしたならば、「気をつけていなさい」とのイエスの最後の言葉は意味をなさない。気をつけていることができるのが賢い乙女たちであり、愚かな乙女たちは気をつけていることができないからである。気をつけていることができるということは、自分自身の愚かさを知っているということである。気をつけていなければ、忘れてしまう自分自身を知っているということである。そうでなければ、賢い乙女と言われている者たちは、自分の油を壺に入れておくことはなかったであろう。従って、賢い乙女と言われているのは、花婿の到着が遅れることを考えている乙女である。愚かである乙女と言われているのは、花婿が時間通り到着すると考えているのではなく、不測の事態を何も考えていないのである。それゆえに、自分の油を壺に入れておかなかった。そして、彼らが買い物に行っている間に、扉は閉じられてしまったというのである。

「気をつけているように」という勧めは、寝てしまわないようにということのように思える。しかし、愚かさは寝てしまうことではなく、考えの無さである。気をつけているのは、考えの無さに気をつけているのである。しかし、考えのない人間は気をつけていることはできない。従って、愚かな者は愚かな者であり、賢い者は賢い者であるということは変わらないのである。気をつけていることができるならば、賢いのであり、気をつけていられないならば、愚かなのである。だから、「気をつけていなさい」との最後の勧めは意味をなさない。

それでも、「気をつけていなさい」という言葉を聞いて、気をつけるようになるならば、それは賢いのである。気をつける賢さとは、自分自身に気をつけている賢さなのだから。イエスの言葉を聞いて、その言葉に従うならば、賢いのである。愚かなのは、イエスの言葉を聞いても、気をつけることができない者である。すると、このイエスのたとえは、十人の乙女が天の国と同じであるということと合致しない。しかも、気をつけていることができる者が気をつけるのであるならば、結局イエスは聞く耳のある者に語っているのである。しかし、十人の乙女と天の国が同じであるならば、天の国は愚かな者と賢い者で構成されていることになる。そうなのだろうか。このたとえの始まりからはそうとしか言えない。イエスは、愚かな者も戸を閉められても、天の国にいると語っているのであろうか。愚かさも賢さも含めて、天の国なのだと。

では、「気をつけていなさい」との勧めは、何故、語られるのだろうか。気をつけている者が増えて欲しいからである。天の国には、愚かな者もいるのだ。しかし、その者たちが真実に天の国にいるために、「気をつけていなさい」とイエスは語っているのだ。そして、気をつけなければならないのは、このたとえを聞いている我々なのである。つまり、我々は愚かな乙女なのである。このたとえを聞いて、わたしが愚かな乙女であると認識する者は、賢い乙女である。このたとえを聞いて、「ああ、あの人って、愚かな乙女だ」と認識する者は、愚かな乙女なのである。自分自身を正しく認識できない者が愚かなのである。それゆえに、我々はイエスの言葉を聞かなければならない。しかし、如何にして聞くのか。

我々が聞く者であるか、聞かない者であるかは、終わりの日に明らかになる。我々が愚かな者であるか、賢い者であるかは、終わりの日に明らかになる。この終わりの日のうちに、すべてが明らかになる。明らかになるまで、我々は知らないのだ。終わりの日になって、「主よ、主よ、開けてください」と言うのだ。そして、そのように言う者も天の国に入っているのだろうか。天の国の選びには入れられている。しかし、本質的な救いには与らないのである。最後まで分からないのであれば、我々はどうしたら良いのだろうか。「気をつけていなさい」としかイエスは言えない。よくよく自分自身を見つめていなさいとしか言えない。自分はランプを持っているから大丈夫なのだと考えるなと、イエスは言う。

このランプは信仰である。信仰は与えられても、自分自身のものとなっていなければ、ただ与えられただけである。与えられたものを与えられたものとして感謝して受け取り、その中で生きていることが必要なのである。ランプを燃やし続けることが必要なのである。ランプの光で照らされる自分自身を見ている必要があるのだ。ランプの光が照らし出す自分の愚かさを受け入れる必要がある。そのとき、我々は自分の壺に油を備えているであろう。自分自身を照らさず、他者の愚かさを照らそうとする者は、受け入れない者である。信仰が、その人を照らすのではなく、その人を曇らせてしまうことになる。こうして、我々は自らの愚かさに従うことになるのだ。

このようにならないために、イエスは今日、我々に語り給う。あなたは愚かな乙女なのだと。あなたは、信仰を与えられているが、自分を照らしていないと。それゆえに、気をつけていなさいと。このわたしの言葉を聞きなさいと。あなたが愚か者であることを認めるとき、あなたの耳は開かれている。他者を愚か者であると考えるとき、あなたの耳は閉じられている。だからこそ、終わりの日に、「主よ、主よ、開けてください。」と言わないために、「気をつけていなさい」とイエスは言う。

これが天の国である。これが信仰である。これが十字架の言である。何故なら、イエスは十字架の上で、あなたの愚かさを引き受け給うたのだから。気をつけていることができないあなたを引き受け給うたイエスが語っているのだ、「気をつけなさい」と。終わりの日に、あなたが戸を叩くことにならないようにと。終わりの日に、あなたが慌てふためくことのないようにと。終わりの日に、救い主を迎える者として立つようにと。イエスはあなたに語っているのだ。「愚か者よ、気をつけていなさい」と。「あなたのために、わたしは十字架を負ったのだ」と。それでもなお、十字架を見上げないならば、我々は終わりの日に戸を叩くことになる。そうならないためには、今自分自身の油を確認することである。与えられた信仰を確認することである。真実に、自分の愚かさを認めているのか否かを確認することである。あなたのために、キリストは語り、キリストは十字架を負われたのだから。キリストの十字架こそ、あなたのための油なのだ。

今日、共にいただく聖餐において、我々はこのキリストの油をいただく。「あなたがたのために与えられるわたしの体、わたしの血」とのキリストの言葉をいただく。あなたのために差し出されているキリストの体と血は、あなたの油なのだ。あなたの信仰の火を点し続ける油なのだ。感謝して受け、キリストの火が燃え続けるようにと祈ろう。わたしが気をつけている者として生きていくことができますように。わたしのうちに、キリストが輝き続けてくださいますように。わたしがキリストの賢さに与りますように。愚かな者として、キリストの御前に立とう。愚かなわたしをお救いくださいと、祈りつつ。

祈ります。