2014年11月23日 末竹十大牧師
「知られざる義」
マタイによる福音書25章31節〜46節
「羊飼いが分けるように、羊を山羊から」とイエスは言う。「分ける」という言葉は、アフォリゾーというギリシア語である。使徒パウロが自らを「分けられた者」アフォーリスメノスと呼んでいることからも、召命とも関係している言葉である。この言葉は、神が分けるという意味で使われている。羊飼いであるキリストが、山羊から羊を分けるのである。何故、分けなければならないのか。
山羊と羊は見れば分かるはずである。それなのに、混じり合っているのが、この世だからである。この世のすべての人間が、山羊と羊で表されている。従って、山羊は呪われてしまっている者たちの象徴であり、羊は祝福されてしまっている者たちの象徴であるとイエスは語っている。どちらも終わりの日における現在完了を生きている。これらの存在が混じり合っているこの世でうまく生きている存在は、山羊であろう。羊は愚かさを生きている。しかし、どちらも自らの行為の意味を知らない。自分が何をしているのかも知らない。ただ、目の前の苦難を負っている人たちを助ける者と、助けない者であるだけなのだ。知らずに、神の意志に従っている人と、知って、神の意志に従わない人がいる。従わない人は、神が目の前に来たときに従えば良いと考えている。あるいは、救われるために従うのだと考えている。自ら、他者を分け、利益にならないことは行わない。従う人は、神が起こし給う世界をありのままに受け止めている。この違いが、終わりの日に明らかになる。
しかし、どちらも知らずに行っているとは言え、山羊は知っている。終わりが来たならば、そのとき、神に従おうと。そして、現実のこの世にあっては、自分のしたいように生きている。自分が認められることはするが、認められないことはしない。反対に、羊は、認められようと認められまいと、目の前に起こった出来事に対して、苦難を共にしようとする。自分の都合で回避することはない。それが、知られざる義である。反対に、山羊の行為は、知られるための義であり、自らを立てる義である。これに対して、キリストは「わたしにしなかった」のだと言う。これはどういうことであろうか。
この世の隣人に対して行うことはすべてキリストに対して行うことなのか。いや、最も小さな者のひとりに行うことがキリストに対する行為なのである。しかし、行っている者はそれを知らない。キリストに対する行為だと分かって行っているわけではない。そこが重要な点である。
山羊は、キリストが目の前にいれば行うのに、いないのだから行えないと抗弁している。ここに、目の前にいるキリストを見ていない目がある。いや、最も小さき者と同じになられた十字架のキリストを知らないのである。このお方の十字架ゆえに、わたしの罪が赦されていることを知らないのである。それゆえに、山羊はキリストを知らない。最も小さくされたキリストを知らない。ただ、終わりの日に裁き主として来るキリストを知っているだけである。そのために、備えれば良いと考えているだけである。山羊にとって、この世は終わりの日まで、自分の生きる世界ではないのだ。この世で生きてはいないのだ。終わりの日に備えているだけである。しかし、その備えは自分だけが救われれば良いという備えである。従って、この世にあっても、自分のことだけ、自分の救いだけを考える。終わりの日に、自分だけが救われると思っている。この世を、終わりの日から生きていない。従って、山羊はすでに終わっているように生きている。
しかし、羊は終わりへと生きている。終わりに向かっているだけではなく、終わりに向かって、一緒に生きようとしている。彼らは知られざる義に包まれているのである。十字架という知られざる義に。十字架こそ、この世に知られず、神の義として立っている。この世の生き方は、救いを手に入れる生き方である。救いに入れられているところから生きることはない。山羊は、救いを手に入れるためには生きるが、救われていることを知らない。神の義に包まれていることを知らない。神の義しさを知らない。それゆえに、知られざる義に包まれることはない。反対に、羊は神の義に包まれているという恵みから生きている。従って、彼らの義は応答の義である。恵みへの応答として生きているがゆえに、救いを求めて生きることはない。従って、彼らは知らない、救いを求めることを。知られざる義に包まれているがゆえに、自らの救済を求めず、他者を救済する。救われていることを生きているがゆえに、知られざる義に包まれている。それさえも知らずに生きている。右の手のすることを左の手が知らないで生きている。従って、彼らは知られざる義を生きている。
このように生きるのはどうしてなのか。羊は何故知られざる義に包まれているのか。山羊は包まれていないのか。いや、山羊も羊も包まれているのである。包まれていることを知らずに、羊も山羊も生きている。しかし、羊の魂は知っている、救い主を知っている。どうして、山羊は知らないのか。山羊は、自ら獲得する方向で生きているからである。羊は自ら低き者として生きているからである。この違いが、分けられることである。
自らが分ける者は、分けられている、救いから。自らが分けない者は、分けられていない、救いから。分ける者が分けられ、分けない者が分けられない。従って、羊は自らを受難者と同じように生きている。山羊は自らを受難者から区別して生きている。こうして、最終的に主によって分けられる。これが最後の審判である。
ということは、我々はこの世にあって、分けないで生きることが必要なのだろうか。そうである。しかし、分けなければ分けられないと考えて、分けない生き方をするならば、それも分けていることになる。救われることを獲得するために、分けていることになる。目的を持った行為は、結局同じ思想に陥ってしまうのである。神が分けることを受け入れる者は、分けられない。自らが分けることを求める者は、分けられてしまう。目的を持つことは、結局自らが分けることである。自らが救われるために、分けない選択をするという思想においては、神が分けられてしまう。その人にとって、神は道具でしかない。従って、神のうちに生きていない。神の意志のうちに生きていない。それゆえに、神を分ける。そして、神に分けられる。
アフォリゾー「分ける」思想によって、分けられるのは分ける者である。分けられず選ばれているのは、神に信頼し、神の与え給うたものをありのままに受け取る存在である。苦難をも恵まれていると生きる者においては、分ける思想は生まれない。何であろうとも引き受けて生きる。十字架のキリストに従って。それゆえに、我々は十字架のキリストが我がうちに生きるようにと祈るのである。我がうちに、キリストが形作られるようにと祈るのである。パウロが言うように、キリストが形作られるように祈られているわたしを生きていこう。そのとき、我々は知られざる義に包まれ、知られざる義を生きることができる、内なるキリストによって。
あなたはキリストの羊。愚かで、目先のことに目を奪われ、迷い出ても、神が連れ帰ることを知っている。神があなたを求めていることを知っている。神がすべてを良き方向へと導き給うことを知っている。それゆえに、安心して、迷い、叫ぶことができる。助け給うお方に叫ぶことができる。苦難を負う人と共に、神に祈ることができる。そこにおいてこそ、あなたは神に分けられ、選ばれた者として生きるのである。
終わりの日は、今を分けないで生きる者において、今生きられる日である。あなたが、終わりの日を生きていくことができますように。終わりを固定化させず、時間を固定化させず、ただ途上性を生きていこう。自らの義を知ろうとしないあなたを、キリストが生かしてくださるのだから。
祈ります。
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