2014年11月30日 末竹十大牧師
「即時的応答」
マルコによる福音書11章1節〜11節
「そこへ入るとすぐ、あなたがたは見出す、つながれている子ロバを。未だ、人間たちの誰も座ったことのない子ロバを」とイエスは言う。向こうの村に入ると「すぐ」見出すと言うのである。誰かが何か言ったならば、「彼の主人が必要を持っている。そして、すぐに再び遣わすでしょう。」と言いなさいと言う。「すぐ」とは即時のことである。間をおかないことである。間をおけば、さまざまに考えることが起こる。思考を挟まないことが即時である。イエスは、弟子たちが子ロバを選ぶことを求めていない。彼らがすぐに見出した子ロバを連れてくることを求める。そこに、弟子たちの思考が入り込まないことを望むのである。これは、信仰における応答にも言えることである。
即時的に応答しなければ、信仰に入ることができない。信仰のうちに入るには、即時でなければならない。そこに、人間的思考が入り込むと、信仰を受け取ることができず、信仰のうちに身を投ずることができないものである。さまざまに考え巡らしているうちに、信仰から遠ざかってしまう。そして、信仰を論理的に選択しようと考えるようにもなるのである。これでは信仰には入れない。
同じように、神の言を聞いたときも、さまざまに考え巡らしていると、神の言として聞くことができなくなる。人間の価値観によって理解できるように理解することに陥る。そして、神の言を聞かなくなるのである。即時的に聞くことは、人間の思考を挟まないことである。人間の思考が挟み込まれると、人間は自分の思いによって、ことをうまく運ぼうとしてしまう。そして、行為自体を生きることができなくなるのである。即時的に行うことによってこそ、行為自体を行うことができるのである。
今日の弟子たちに命じるイエスは、彼らに考えさせない。何か言われたならば、こう言いなさいと言うべき言葉を与えている。弟子たちは、子ロバを見つけたならば、何も考えずに、縛られている綱を解く。何か言われても、何も考えずにイエスの言葉を言う。それだけである。そうして、イエスが命じたことを遂行することができた。
命じられた言葉の意味を考えていたならば、彼らはイエスの命令を遂行することができなかったであろう。何も考えなかったから、遂行できたのだ。何の意義も考えず、意味を問うこともせず、ただイエスの言葉に従ったからである。弟子たちは、神の言に従う信仰の経験をさせられているのである。それは、彼らには分からないであろうが。
意味を考えていたならばできないことがある。意味を問うていたならば、越えることができないことがある。神の事柄、信仰の事柄は、意味を問うても無駄なのだ。何故なら、神が命じ給うこと、神が語り給うことに従うことが信仰なのだから。神の事柄は、自然的人間には理解できないからである。ただ、神の霊を与えられた人間が、神の心を受け取るようにされるというだけである。従って、我々が人間的に神の事柄を理解しようとしても、理解できないのである。理解できないがゆえに、自分自身の思考を越えることができないのである。越えることができないことを越えるには、越えることができないことを受け入れる必要がある。人間の限界を知る必要があるのだ。神の事柄はわたしには分かり得ないと認める必要があるのだ。
しかし、それでは何も考えずに従うだけだから、騙されているのかどうかも分からずに従うことになりはしないだろうか。そうである。騙されることも起こりうる。しかし、騙すのは人間である。神は騙さない。騙されることも、人間的思考に従って、論理的に、分かることを受け入れようとするからである。分かりやすいことは、実は人間的なことなのである。信仰とは基本的に人間的思考では至ることができない事柄なのだということは、知っておかなければならない。ただ神を信頼して、神の言に従うことこそが信仰なのである。そのように従うことは、人間からは生じない。神の言が語られたとき、我々が従うのは、神の言の力によってである。我々が論理的に思考して従うことはないのである。論理的に思考する場合、我々は自分に都合の良い論理で思考するのだから、結果的に神の意志に従うことはないのである。
弟子たちがイエスの命じたことをなし得たのは、彼らが論理的思考を遮断させられたからである。イエスの言を与えられており、与えられた言を語るだけだったからである。それゆえに、イエスが語った言の力が、弟子たちを通して、働いたのである。弟子たちの言ではなく、イエスの言が或る人をして、弟子たちを許すように働いたのである。ここで起こっていることは、イエスの言の力である。イエスが語った言が、弟子たちを通して働いたのである。それゆえに、弟子たちは自分たちで思考してはいない。ただ、イエスの言を語っただけである。イエスの言によって、即時的応答が生じているのだ。イエスの言が、即時的に、人間的思考を遮断して、働いている。そして、人間は人間的思考を遮断されて、即時的に生かされている。これが、今日起こっている事態なのである。
ということは、今日起こっている出来事は、イエスの言が造りだした出来事である。イエスの言に主体がある。イエスの言がすべてを動かしている。即時的に世界が応答している。イエスが、子ロバに座ると、世界が即応答するのだ。自分の服を道に広げ、畑から切ってきた葉のついた枝を道に広げる。従う者も先を行く者も叫ぶ。「ホサナ、主の御名によって来られる方が祝福されよ。来るべき我らの父ダビデの国が祝福されよ。ホサナ、高きところにおいて。」と。彼らは、イエスの行為における言に、即時的に応答している。ここには、思考は働いていない。思いを起こされ、叫んでいる。この群衆が、「十字架に付けよ」と叫ぶ群衆に変わるのだと言われるが、それは当然である。ここで働かなかった思考が、十字架のときには働いていたからである。ということは、ここにおいてイエスの言に即時的に応答した彼らは、自覚していない信仰のうちに入れられていたと言える。しかし、十字架においては、ファリサイ派やサドカイ派などの最高法院の者たちにおもねる気持ちが先立っていたのである。十字架においては、思考が働いているのだ。自分を守る思考が。そのような人間であろうとも、イエスの言に従うことがあるのだ。それが、今日の出来事である。
我々は、今日、待降節第1主日を迎えている。今日から始まる新しい一年を如何に生きるのか。我々はイエスの言に従って生きることへと招かれているのである。即時的応答を生きるようにと訓練された弟子たちのように、我々もイエスの言に即時的に応答する生き方を身につけなければならない。そのためには、思考しないことではなく、思考することが必要なのである。その思考は、自らがうまく事を運ぶための思考ではなく、自らが如何に罪深く、自分の都合で神の言を曲げてしまうかを考える思考である。すなわち、自己省察によって、自らの罪深さを知ることである。そのような思考は、自らを立てる思考ではなく、自らを断罪する思考である。このような思考こそ、我々がなすべき思考である。イエスが遮断した思考ではなく、自らをよくよく見極める思考を与え給うのも、イエスの言である。神の言であるイエスが、我らのうちに入り来たる出来事がエルサレム入城である。イエスの言が主体である出来事。イエスの言が造り出した出来事。入り来たる出来事が、我らのうちに造り出されますように。信仰の従順へと導き給うお方の体と血をいただく聖餐を通して、キリストを我らのうちにお迎えしよう。あなたを神の言によって、新たに造り給うお方を喜び迎えて、新しい年を生きていこう。人間的思考を遮断され、即時的応答を生きていこう。あなたがたはキリストのもの、キリストは神のもの。すべてのものは、神から、神を通して、神へと生きているのだから。
来たり給うキリストを迎え、キリストと共に、キリストのうちで、キリストに従って、進み行こう。キリストの十字架を見上げて。
祈ります。
|