2014年12月7日 末竹十大牧師
「まっすぐに」
マルコによる福音書1章1節〜8節
「主の道を整えなさい。まっすぐに作りなさい、彼の踏み固められた道を。」とマルコのギリシア語原文では語られている。これはギリシア語訳旧約聖書の訳文通りである。ヘブライ語原文では、「主の道」は「ヤーウェの道」となっている。神ヤーウェの道を整えること、彼のための踏み固められた道をまっすぐに作ること。それが、荒れ野で叫ぶ者の声が叫んでいることである。しかし、踏み固められた道は誰が踏み固めるのか。洗礼者ヨハネか、人間か、神か。
荒れ野には道はない。荒れ野は誰も通らない。誰かが通った跡が踏み固められるということがないのが荒れ野である。多くの人が通り、道が踏み固められるのは、町から町へと人々が目的をもって歩くところである。荒れ野は行く宛のないところ。誰も通らないところ。だから、道はない。道のないところに、踏み固められた道を作る、しかもまっすぐに。それが洗礼者ヨハネの使命なのか。彼は如何にして作るのか。声によってである。「整えよ」と叫び、「まっすぐに作れ」と叫ぶ声によってである。その声は、如何に響くのか。人々の心に響くのか。人々は如何に聞くのか。聞く耳のある者が聞くであろう。聞く耳のある者の心に響くであろう。その声を聞いた者が、「整えよう」、「まっすぐに作ろう」と思うならば、聞いている。聞き流しているならば聞いていない。聞こえていても聞いていない。ただそれだけである。
ヨハネの声は、荒れ野に響いている。人のいない荒れ野に響いている。あえて荒れ野に入る者が聞くであろう。誰も通らないところに入り、踏み固める者が聞くであろう。誰も聞かない言を聞くであろう。それがヨハネの声である。彼は虚しい声を響かせているかのようだ。誰も聞かないのだから。しかし、聞く耳のある者が荒れ野に入っていく。誰も入らないところに入っていく。そのとき、その人は聞いている。入っていくときには聞いているのだ。それゆえに、「道を整えなさい。」と声は言う。「荒れ野に、彼の踏み固めた道を、まっすぐに作れ」と声は言う。「まっすぐに」と言う。
「まっすぐに」とは、向かう方向が一つだということである。そこ以外に向かわないということである。目指すところが一つであることが「まっすぐに」である。それは人間がまっすぐに主に向かうということであろうか。それとも、主がまっすぐに人間に向かうということであろうか。両者がまっすぐに向き合うことであろうか。いや、人間が右往左往し、あちらに気を取られ、こちらに誘われたとしても、神ヤーウェはまっすぐに人間に向かってくるのである。そうであれば、まっすぐに向かってくるお方ヤーウェを迎える道をまっすぐに作ることがヨハネの使命である。すなわち、まっすぐに迎える道を整えること、作ることがヨハネの使命なのである。従って、ヨハネが声をもって整えることは、声を聞いた者がまっすぐに神に向くことではあるが、神が来たるときにまっすぐに迎える在り方だと言える。
迎える在り方。迎える方向。迎えるように生きること。迎えるために歩むこと。それが方向転換であり、在り方の転換であり、悔い改めである。イザヤ書40章において語られていることは、この方向転換である。向きを変えることである。それは生き方の転換であり、在り方の転換である。
人間は、どうしても自分から神に向かうのだと考えがちである。人間を中心として神に向かおうとする。しかし、神を中心とした生き方に転換することが、神を神とすることである。人間はあくまで、神の客体である。神の主体ではないというところに転換すること。それが悔い改めである。人間はあくまで神に造られたものである。被造物である。人間が行うことは常に悪である。悪しか行わない人間が罪人である。罪に支配され、罪に流され、罪に踊らされている人間が、神を主体として生きる方向に転換することが悔い改めであり、信仰に入ることである。神の堅さの中に入ることである。そこにおいて、我々は人間中心主義から解放され、神が為し給うことをまっすぐに受け入れる生き方へと開かれていくのである。この開かれは、我々からは生じない。神から生じる。神から生じなければ、開かれではない。開かれることは、神が開かなければならないのだ。人間が自分で開こうとするとき、結局人間中心主義から脱け出すことはできないのである。
洗礼者ヨハネは、その道筋を整えることを使命とした。何故なら、彼は声だからである。聞く耳のある者が聞く声だからである。彼が、聞かせることはできないのだ。それゆえに、彼は水に沈めるという物理的行為はできても、聖霊に沈めるという霊的行為はできないと語っているのである。これはあくまで、神の業である。従って、ヨハネが言う「わたしより優れた方」とは、神である。キリストは神である。神の子イエス・キリストの福音の始まりは、人間的行為の限界である洗礼者ヨハネから始まる。神の子イエス・キリストが来たりて、一人ひとりを聖霊に沈める。この沈めは、神の業である。洗礼者ヨハネの沈めは人間の業である。人間の業の限界である。人間の究極的業である。限界を越えることができない人間の業である。これを越えるのは神の業である。従って、ヨハネが整える道は、向きだけであり、向きさえ間違えなければ、まっすぐに迎えられるようにと整えられる道である。
しかし、これが踏み固められた道であるとはどういうことであろうか。誰も通らない道、誰も通ったことのない道なのに、踏み固められた道とは、いったいどういうことなのか。
踏み固めるのは神であろうか。いや、迎える方向性がまっすぐであるならば、まっすぐに迎えるように踏み固めるのは人間である。それは何度も何度も繰り返し踏み固めるのだから、方向性を整えたけれど来なかったという空振りの経験を積み重ねることである。空振りの経験は、投げ出してしまいたくなる。しかし、繰り返す。そこに忍耐が生じる。忍耐は練達を、練達は希望を働き生み出すと使徒パウロが語ったように、繰り返す忍耐こそが苦難が働き生み出すものである。踏み固められた道は、苦難の道である。苦難を繰り返し経験して、踏み固められていく道である。これは方向性を維持しないならば踏み固められない。従って、ヨハネが方向性を指示しても、それだけでは踏み固められないのである。指示された者が苦難を引き受けて、何度も何度も忍耐しつつ、待ち続けるときに踏み固められるのである。ここにおいて、踏み固めるのは人間であるが、苦難を引き受けるように導く希望があるがゆえに、踏み固められる道である。従って、聖霊のうちに沈めるキリストの業は、苦難における希望を与える業なのである。
キリストの十字架こそが、聖霊のうちに沈めることである。キリストの十字架の受難こそが、苦難の行き着く先である。誰も通ったことのない荒れ野にまっすぐに作られた道。それがキリストの十字架である。この道を整えるために、洗礼者ヨハネは声として叫ぶ。荒れ野に声を響かせる。そして、荒れ野に消えていく、叫ぶ声として。キリストの十字架への道を整え、キリストの福音への道を整える業。人間的限界の業。ヨハネの業。この業を引き受けて、キリストは十字架を担った。十字架にかけられるために、クリスマスに生まれ給うた。十字架に向けて、まっすぐに生まれ給うた。十字架に至るために、飼い葉桶に生まれ給うた。このお方の体と血が、我々を導く、踏み固められた道へと。
今日、共にいただく聖餐を通して、キリストの十字架を最終的希望としていただき、一人ひとりが踏み固めていく道を作るのだ。ヨハネが叫ぶ道を作るのだ。キリストの十字架に基づいて、あなたの道が主の来臨をお迎えする道となりますように。まっすぐに主をお迎えすることができますように。待降節の歩みを、主に向かって、主を希望として、歩み続けよう。あなたの主がお出でになる。あなたのために十字架に架かる主がお出でになる。感謝して、聖餐に与り、主の恵みによって、道を整えていただこう。あなたがた一人ひとりの人生の道が、まっすぐに主を迎える道でありますように。
祈ります。
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