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2014年12月14日 末竹十大牧師

「信仰告白」

ヨハネによる福音書1章19節〜28節

 

「彼は告白した、わたしはキリストではないと」と記されている。洗礼者ヨハネはここで信仰告白をしたのだ。彼が告白した内容は「わたしはキリストではない」である。これが信仰告白である。

我々が信仰を告白するということは、「わたしは神ではない」ということであり、「わたしはキリスト救い主ではない」ということである。この告白がなければ、我々は自らを神にしてしまうことになるのだ。洗礼者ヨハネの信仰告白は正しい自己認識に基づいている。彼は自分が人間であり、神に造られた者であることを告白しているのだ。この信仰告白は否定であって、肯定ではない。自己否定である。自己否定こそが真実に信仰告白であると言えるであろう。

我々は、自らを真実に認識しているならば、自己否定において神を肯定するのだ。自らが何者かであると思っている者は、神を肯定しない。自らを否定しない。そして、神を否定するのである。これが人間の罪である。人間は、自らを何者かであると信じるとき、神を否定し、信仰を持っていないのだ。それゆえに、他者からの言葉、他者からの勧めを素直に聞くことがない。自分が理解していると思っているからである。自分が神の事柄を知っていると思っているからである。何者でもない自分を知らない。それゆえに、神を知らない。何故なら、自らが神に造られた存在であることを知らないからである。神に造られた自らを知っているならば、我々はこう言うのだ。「わたしは神ではない。」、「わたしはキリストではない。」と。それこそが、まっすぐに神を認めることである。まっすぐに自分を認めることである。まっすぐに神を迎えることである。

さらに、洗礼者ヨハネは自らを声だと言う。声は消えていく。声は残らない。声は伝えるだけ。声自体は音でしかなく、音が伝えた内容だけが伝わる。従って、声は何でもない。声は言葉を伝える。言葉は声となるが、声は言葉を作らない。声は言葉を伝えるだけ。言葉が声を通して、言葉として残っていく。この言葉がキリストであり、神である。言葉を発して、世界を造ったのは神だからである。洗礼者ヨハネは言葉ではない。言葉を伝える声である。言葉が伝わるための媒介物に過ぎない。言葉が伝われば、声の使命は終わる。声は残らない。それゆえに、洗礼者ヨハネは言う。「わたしはキリストではない」と。この告白こそがまっすぐな告白である。まっすぐに神を迎える告白である。

この洗礼者ヨハネがキリストについて言う。「あなたがたのただ中に、あなたがたが知ってしまっていない方が立ってしまっている。」と。知ってしまっていない方がキリストであり、立ってしまっているお方であると。あなたがたのただ中に立ってしまっていながら、あなたがたは知ってしまっていないのだ。これも否定である。キリストは否定で告白されている。まったく知らないお方がキリストであると洗礼者ヨハネは告白するのである。ヨハネは知ってしまっているのだ。自らが知ってしまっているので、告白するのである。しかし、そのお方をヨハネは「知ってしまっていない方」として告白しているのだから、ヨハネも知ってしまっていないのだ。そのお方は立ってしまっているのだから、ヨハネはやはり知ってしまっているのではないのか。いや、立ってしまっているということは、彼が知らなくとも立ってしまっているのだ。ヨハネは知らないが、立ってしまっていることだけは知ってしまっている。知らないけれど知っている。知らないということを知っている。立ってしまっているということを知っている。それだけなのだ。それゆえに、彼は言う。「わたしの後に来る方」だと。そして、「わたしは価値がない、彼の履き物の紐を解くための。」とも言う。また否定である。洗礼者ヨハネは「キリストではない」と言い、「知ってしまっていない」と言い、「価値がない」と言う。キリストについては、すべて自己否定でしか語り得ない。何故なら、彼もキリストを知ってしまっていないからである。それこそが、信仰告白なのだ。

知ってしまっていないということは、知るべきであるが知ってしまっていないということである。知るべきものを知らないという自己を認めることによってこそ、キリストを迎える方向に向かうのである。価値無く、知らず、ただ迎える存在こそ、信仰告白の存在である。そのような存在は、自らの現在をすべて否定する。そうしてこそ、来られる方を迎えることができるのである。

我々は知っているお方を告白するのではない。知らないお方を告白するのである。自らが知らないということにおいて、我々は神の意志に向かって開かれる。知っていると思っているならば、自分の知っている範囲までしか開かない。そして、その範囲に合致するものしか受け入れないのである。これは信仰告白ではない。信仰告白は、自己否定の末に行き着く神の意志の承認である。自己否定の末に、我々は神によって開かれるところに導かれるのである。

しかし、我々は如何にして、自己否定に至るのであろうか。ただ自分を否定しようとすると自分を否定できない。自分を否定しようとする自分を否定できないのである。むしろ、否定できない自分を認めるとき、自分を否定している。罪深い自分を認めて、自分を否定している。罪を認めるとき、自分を否定しているのだ。洗礼者ヨハネは、そのように自己否定しているのだ。そして、信仰告白しているのだ。

我々の信仰告白は、神の前で自己否定させられる出来事である。造り主なる神を認め、救い主なるキリストを認め、聖霊なる神を認めるということは、神がすべてを為し給うことを認めることである。それゆえに、わたしは何も為すことができないと認めることである。何かを為そうとする自らの罪を認めることであり、自らを否定することである。洗礼者ヨハネの信仰告白はそのような事態なのだ。彼の告白は、我々の信仰の基本を示している。ヨハネこそ、キリストを迎えた存在。キリストの前に、自らを断罪した存在。キリストによって自らを開かれた存在。しかし、キリストを知ってしまっていないのだ、洗礼者ヨハネは。知ってしまっていないという究極的現在完了において、洗礼者ヨハネは知ってしまっていないお方の前にひれ伏している。これこそが究極的信仰告白である。この告白を為した洗礼者ヨハネに対して、神はキリストを示し給うた。キリストを知ってから、信仰を告白するのではないのだ。キリストを知らないことを告白して、キリストを知るのだ。

知らない方を告白することはないと思うのは、愚かなことである。知らないならば告白できないと思うのは、人間中心主義に陥っている。信仰は神が与え給う。信仰は神が告白させ給う。知らないことを認めたとき、あなたは信仰者として生き始めるのだ。信仰を与えられた後も、あなたはキリストを知らないお方として求めて行かなければならない。知ってしまっていると思うならば、あなたはキリストを求めることはないであろう。知らないからこそ、求めるのだ。自らの人生のただ中で、立ってしまっているお方を求めるのだ。そのとき、あなたは生涯悔い改めを生きていくであろう。

知ってしまっていないことを認めなければ、生涯悔い改めて生きることはない。我々人間の罪は、知ってしまっていると思い込むこと。神を知ってしまっていると思い込むことで、我々は神を捨てるのだから。そして、自らが神になってしまうのだ。

あなたは何も知らない。何も分かっていない。何も認めていない。自分だけを立ててしまっている。あなたのただ中に立ってしまっているお方を見ようとしない。それゆえに、信仰を与えられても、信仰を生きることができないのだ。洗礼者ヨハネが告白するように、我々も自らを価値なき者と認めよう。知ってしまっていないと認めよう。キリストではないと認めよう。そのとき、あなたはキリストを迎えている。このクリスマスに来たり給うキリストが、あなたの心を開いてくださるように。あなたのただ中に立ってしまっているお方が、あなたに告白させてくださるように。わたしは何者でもないと認め、キリストを迎える者としてくださるように。

祈ります。