2014年12月21日 末竹十大牧師
「救済の始動」
ルカによる福音書1章67節〜79節
「そして、彼の父ザカリアは聖なる霊を満たされた。そして、彼は預言した。こう言って。」と言われている。ザカリアは預言した。今日我々が聞いた言葉は預言の言葉である。ザカリアの口を通して、神の言が語られている。神の意志が語られている。ザカリアの希望ではない。神の意志、神の宣言である。宣言である以上、ここで語られている事柄は実現する。現実化される。いや、語られたときに現実化が始まっている。それゆえに、ザカリアは過去形で語っている。「救いの角を彼は起こした、わたしたちに。」と。過去形であるということは、ザカリアが語る時点で過去である。何故なのか。救いの角がイエスであるならば、未だ生まれていないイエスが起こされること、イエスの十字架が過去形であるはずがない。ところが過去なのである。何故なら、ザカリアの預言はかつての預言者たちが語ったことに基づいているのだから。それでも、イエスの出来事は過去ではない。過去ではないが、過去であるということは、イエスの出来事はすでに始まっていたということである。いつ始まったのか。アブラハムへの神の誓いによって始まっていた。その誓いに基づいて、かつての預言者たちも預言した、神の意志を。
アブラハムへの誓いであれば、イエスの出来事から数えて、千五百年前である。しかし、千五百年間何も起こらなかった。イエスの出来事から数えて、およそ六百年前のバビロン捕囚の時期から、救いの角は預言されていた。そのとき、預言者はすでに起こっている出来事を宣言しただけなのだ。神が誓ったアブラハムへの誓いを信頼せよと。神の意志に信頼して生きるようにと預言したのだ。
神がアブラハムに宣言したのだから、それは現実化し始めた。千五百年間何も起こらなかったと思えるときでさえ、変更されずに、現実化されてきたのだ。着実に、現実化の道を進んできたのだ。洗礼者ヨハネに至り、イエスに至る。この救いの最終段階に入ったのが、ザカリアの息子洗礼者ヨハネにおいてなのである。洗礼者ヨハネは現在である。イエスは将来である。しかし、救済はすでに千五百年前から始動していたのだ。これが、ザカリアが預言していることである。
洗礼者ヨハネの現在は、過去の預言の現実化であり、現実化された洗礼者ヨハネは救いの角の起こしの現実化へとつながる。千五百年の長きにわたる現実化の歩みは、人間的に見れば、頓挫したかに思える歳月であった。しかし、ザカリアは、頓挫したのではないのだと預言する。ザカリアは、過去、現在、未来を預言する。神の意志は、過去、現在、未来にわたって継続されている。継続されているということは、神の意志が起こった過去において、救いは始動したのだ。救いの完成へ向けて始動した救いは、変更されることなく、救済の現実化を実行していくのである。これは、人間の状態に左右されない永遠の救済である。神の憐れみのはらわたのうちで、救済は胎動し、始動していった。人間はそこに何も関わっていない。何もなし得なかった。それを神がなし給うたと、預言者たちは宣言し、ザカリアは預言したのだ。
人間は、何もなし得なかったというより、むしろ神の意志に反対したのだ。神の意志に従うならば、速やかに実現したであろう。しかし、人間が神の意志に反して生きるがゆえに、実現が妨げられる。こうして、千五百年が過ぎ去った。それでも、継続されている誓いは失われず、実現のときを迎えた。これが、ザカリアが預言していることである。
罪赦される出来事は、神の憐れみなのだ。神の憐れみのはらわたのうちに入れられることなのだ。この憐れみのはらわたのうちに、夜明けの光が我らを訪れる。この「我ら」とは、主の民全体ではなく、憐れみのはらわたに入れられた者たちである。神の憐れみのはらわたの中に入れられる存在は、何もなし得ないことを知っている存在である。何もなし得ないがゆえに、神の憐れみに依り頼むしかない存在である。そのような存在に、夜明けの光が訪れるのだ。
「闇と死の陰のうちに座している者」がそのような存在である。希望する術のない存在。闇に閉ざされているがゆえに、何も見えない、何もなし得ない存在。そのような人間は、この世では何者でもない。何者でもないがゆえに、闇に隠れてしまうのでもある。闇を好むのも人間である。自らが何者でもないと思えば思うほど、我々は何者かでありたいと願う。こうして、自らを闇に閉じ込めてしまう。死の陰のうちに座してしまう。自らを憐れな存在として、自己憐憫のうちに生きる。闇から出ようとしてもがいても、結局闇に座してしまう。自らを憐れな存在として、他者から憐れんでもらうことで、自己の存在意義を見出そうとする。脱け出せない堂々巡りの中を生きている存在。これが、我々自身である。我々は自らを憐れみ、同病相憐れむ中で、傷を舐め合っているだけの存在である。互いに傷つけ合い。互いに傷を舐め合い。互いに憐れみ合う。あきらめの闇を脱け出さないように、互いに監視し合う。脱け出す者を争いによって、闇に閉じ込める。互いに、闇の中に座すように闘うのだ。
敵は自分自身なのに、他の誰かだと思う。自分が闇に閉じこもっているのに、誰かが閉じ込めていると思う。自分から闇を作りだしているのに、誰かが闇を作っていると思う。すべて誰かの所為であり、誰かの責任である。自らを省みることがない。自らを敵であると認識できない。自分自身を憎んでいることを知らない。憎んでいる自分に裏切られ、闇に閉じこもっている。そのような我々を解放するのは、我々ではない。解放者は、我々の外からしか来ない。
我々ではない存在が解放者である。我々ではないが、我々のように闇に閉じ込められなければ、解放できない。我々を理解しなければ、解放できない。我々が理解しない人間性の罪を理解するために、人間となる神こそ、我々を解放するのだ。我々を理解し、我々を解放し、我々を闇から引き上げてくださる。ザカリアはこのお方を預言している。すでに始動している救済を預言している。すでに始動しているのだから、救済は確実であると預言している。確実である救済を受け取るように備えさせるため、ザカリアの息子は派遣されるのだ。
救済は始動している。始動している中に入ることで、救済に与る。始動している中に入るには、如何にすべきかを洗礼者ヨハネは伝えた。救済の方向を向くことだと。救われるには、救われるという方向を向くことである。救われようとすることではなく、救いはすでに自ら動き始めていることを受け入れることである。救われるために、何かをなすことではない。何もなし得ないことを受け入れることである。そのとき、救われる方向を向いている。救われ得ない者が救われようとやっきになり、争いを生み出してしまう。闇を広げてしまうのだ。神の平和、シャロームのうちに生きるのは、シャロームであることを受け入れるだけである。平和の道は神のうちにあると信頼するだけである。そのとき、我々は争うことなく、神のシャロームを生きるのだ。
如何なる状態にあろうとも、我々はシャロームのうちに生きることができる。闇に座すことなく、シャロームのうちに生きる。死の陰のうちに座すことなく、神の命のうちに生きる。あるようにあることを受け入れる存在こそ、自己を認めた存在。自己を愛する存在。自己を神の憐れみのはらわたのうちに見出した存在。そのとき、我々は恐れなく生きる、神の奴隷として、神の憐れみのうちに。
キリストはそのために生まれ給う。そのために、十字架を担い給う。そのために、我々の罪を引き受け給う。飼い葉桶に横たえられる嬰児は、十字架に架けられる。飼い葉桶に神のシャロームを生きる嬰児は、十字架に神のシャロームを生きる。救済はすでに始動しているのだから。完成に向かっているのだから。救済の始動を告げる嬰児の誕生を、迎えよう。キリストの体と血に与り、あなたの体のうちに迎えよう。あなたは始動した救済を生きているのだ。完成に向かって。
祈ります。
|