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2014年12月24日 末竹十大牧師

「隠れなき光」

ルカによる福音書2章1節〜20節

 

「何故なら、彼らに、場所が無かったから、客間の中に」と語られた後、羊飼いについて言及される。マリアとヨセフに場所が無いと語られた後、羊飼いが場所の無い代表として登場するのである。羊飼いたちは場所の無い生を生きている。夜中に、野宿しているのだから、彼らは場所の無い存在である。もちろん、彼らにも家はある。しかし、羊飼いという職業ゆえに、自らの家族を守ることができない。自らの家族よりも羊を守らなければならない。それゆえに、彼らは社会一般からは蔑まれ、場所を剥奪された存在なのだ。そのような存在が、マリアとヨセフであり、その子イエスの誕生も場所の無い誕生である。社会の外で生まれ、社会の外に置かれ、社会の外に生きなければならない。社会の主流になることのない存在。それが、今日出てくる一人ひとりである。このような存在を天からの光が巡り照らす。クリスマスは、社会の外で呻吟する存在を照らす光の誕生なのである。

野宿して、主人の羊を守っていた羊飼いたちが天からの光に照らされる。彼らは、光から隠れることができない。隠れる必要もない。彼らは羊飼いなのだ。羊飼いであることを隠す必要もない。何故なら、この世の最低点に位置する職業だったのだから。日頃と違うことをしているわけではない。職業を隠していて、見つかれば恥ずかしいと思っているわけでもない。彼らは羊飼いなのだ。羊飼いが恥ずかしいと思うのは、羊飼い以外の存在である。羊飼いは羊飼いとして生きている。恥ずかしいとは思わない。神が与え給うた職業だとは思っていなくとも、彼らはこれ以下でも以上でもないことを受け入れている。自らの職務を遂行している。羊飼いは羊飼いである。それゆえに、彼らは天からの光に照らされて、自らの姿がさらされても、隠れることはないのだ。

しかし、「彼らは恐れた、大いなる恐れを」とも記されている。彼らは何を恐れたのか。自らを恥ずかしく思い、さらされることを恐れたのか。何が起こったのか分からないがゆえに、恐れたのか。不安の中で、恐れたのか。彼らの恐れは、大いなる恐れだった。大いなる恐れは、恥などを越えた恐れである。存在自体の恐れである。彼らは、自らがそこに生きていること、存在していることを脅かされていると感じたのであろう。死を恐れたのかも知れない。

ところが、天使が言う。「恐れるな。見よ、あなたがたに福音するから、大いなる喜びを。すべての民にあるであろう大いなる喜びを。」と。すべての民には将来ある喜び。しかし、あなたがたには現在の喜び。大いなる恐れを覆う大いなる喜びと。羊飼いは羊飼いでありながら、大いなる喜びを与えられるのだ。彼らが王様になるわけではない。彼らが主人になるわけでもない。彼らが羊の飼い主になるわけでもない。羊飼いは羊飼いである。しかし、大いなる喜びが与えられる。それは如何なる喜びなのか。

我々は、何者かになるために躍起になっている。人よりも良い職業に就き、人よりも多くのお金を稼ぎ、人よりも上に立つことを目指して生きている。それが輝くことだと思っている。それが光になることだと思っている。さらに光を求めて、上に上に上ろうとする。「もっと光を」と求めるのだ。それが、自分を生きることだと思う。より良い自分を生きることだと思う。実は、そこにあるのは闇なのに。

自らを輝かせるものを身にまとうことを求めている限り、あなたは闇なのだ。闇であることを忘れるために、光に思えるものを身にまとう。こうして、我々はさらに闇に沈んでいくのである。光になったと思ったところで、さらに光り輝く存在を見て、自らを闇だと思い、光を求める。この堂々巡りを繰り返しながら、深い闇に沈んでいくのが人間の罪である。恥ずかしい自分を隠すために、身にまとう光。それは闇を身にまとっているようなものである。我々の外観をいかに輝かせても、我々自身は輝くことはない。身にまとったものが輝いているだけである。あなたの魂が輝かなければ、あなたは輝かないのだ。あなたのうちに光がなければ、あなたは光にはなり得ないのだ。あなたの外にある光は、失われる光なのだ。消えゆく光なのだ。消えゆく光を剥ぎ取った後に残る光。それこそが真実に光である。そこにこそ、大いなる喜びがあるのだ。

羊飼いたちに与えられる大いなる喜び。それは、彼らの存在の恐れを覆う喜び。死を越える喜び。すべてを剥ぎ取られたところにある喜び。何者でもないことを喜ぶ喜び。それこそが、羊飼いたちに与えられる喜び。そのしるしが、飼い葉桶の嬰児の発見なのだ。

しるしとは、本体を指し示す指標である。しるしは本体ではない。本体を表しているが、本体ではない。本体が現れているのがしるしでもある。飼い葉桶の嬰児の発見が、しるしであるならば、彼らが発見することにおいて本体が現れているのだ。彼らをその発見へと導いたもの自体が本体である。彼らが発見すること自体が本体を表している。飼い葉桶の嬰児はその本体を生きているのだ。そうでなければ、羊飼いたちが発見しても、ただの嬰児でしかない。嬰児を発見することにおいて、飼い葉桶に発見することにおいて、彼らは本体に触れるのだ。その本体とはいったい何か。神に生かされている彼ら自身である。羊飼いが羊飼いであるということが本体なのだ。彼らが羊飼いとして生かされていなければ、飼い葉桶の嬰児を発見することはできなかったのだ。何故なら、誰も飼い葉桶に嬰児を探さないからである。探し得ないからである。羊飼いであるがゆえに、夜中に家畜小屋を回ることができた。場所の無い存在であるがゆえに、家畜小屋を探し回ることができた。彼らが羊飼いであるがゆえに、発見できた。羊飼いであることが彼ら自身である。そして、彼ら自身が大いなる喜びを得る、羊飼いとして。

彼らは、嬰児を発見した後、何者かになるわけではない。今までと同じ羊飼いである。今までと同じ場所の無い存在である。羊飼いは羊飼いである。この世の状態に変わりはない。しかし、彼らは発見した、飼い葉桶の嬰児を。そのとき、彼らは大いに喜んだ。羊飼いではなくなることが喜びではない。羊飼いでありながら大いなる喜びを見出す。飼い葉桶の嬰児を発見する。これが今日、我々に語られている福音である。

あなたを悩みに落としているこの世の価値ではなく、この世にあって喜びを生きる価値なのだ。地位や身分が変わり得ないとしてもなお、大いなる喜びがある。苦難の中に生きているとしても、大いなる喜びがある。悲しみの中に沈んでいても、大いなる喜びがある。この世の希望が失われても、大いなる喜びがある。あなたがあなたとして生きていく喜びがある。羊飼いが羊飼いであるように、あなたはあなたである。そのあなたを真実に照らす光こそ、真実の光である。

聖書が語るまことの光は、隠れなき光である。自らを隠すことなく、照らすものを隠れさせない光。その光こそが、飼い葉桶の嬰児である。飼い葉桶の嬰児は、自らを隠すことなくありのままに横たわっている。何者かであるとは誰も思わない。何者にもなり得るが、何者でもない存在。それが飼い葉桶の嬰児である。

この嬰児は、将来何者かになる可能性を持っている。彼は持っている。すべての可能性を持っている。如何なる者にもなり得る力を持っている神なのだ。そして、十字架に死ぬ。何者にもなり得ず、十字架に死ぬ。何者でもない存在として十字架に死ぬのだ。すべての可能性を持っているお方がすべての可能性を剥ぎ取られて、十字架に死ぬ。そのために飼い葉桶に生まれている。何者でもなく生まれ、何者でもなく死ぬ嬰児。そして、神に生かされ、神として生きる。このお方を発見することこそが、あなたの光なのだ。あなたがあなたとして生きていく光なのだ。あなたは、自らの人生において、この光を発見する。あなたの魂に命を、あなたの魂に希望を、あなたの魂に道を見出させる光に出会う。

今宵、あなたは羊飼いたちと共に、嬰児を発見する。隠れなき光を発見する。あなた自身を生かす光を発見する。わたしはあるというお方の光に照らされて、わたしはあるのだと輝くあなたでありますように。クリスマスおめでとうございます。