2014年12月28日 末竹十大牧師
「イエスの時」
ヨハネによる福音書2章1節〜11節
「わたしとあなたに何が。婦人よ。未だ、来てしまっていない、わたしの時は。」とイエスは言う。現にここにきて、すでにある時は、イエスの時ではないと言うのである。「わたしの時」とはいったい何か。十字架の時なのか。それならば、確かに来てしまっていない。未だ、十字架は見えてもいない。婚礼の時は、イエスの時ではない。婚礼は結婚する二人の時である。イエスの時は死の時であり、イエスが死に直面する十字架においてこそイエスの時は来てしまっていると言えるのである。
それなのに、イエスは母の暗示する求めに応じた。どうしてなのか。婚礼の時に、「わたしの時」を感じたのか。あるいは、「わたしの時」とは何かを指し示すために、母の求めに応じたのか。おそらく、後者であろう。何故なら、イエスが行ったことによって、花婿が責められているからである。この世の慣習とは違うことをしたと。
この世の慣習を覆したイエスの行為を、ヨハネは「しるし」と呼んだ。「しるし」とは、奇跡と訳されるが、指標のことである。本体を指し示す指標、記号である。それ自体に意味はなく、本体を指し示す記号である。イエスが行った行為が記号であるならば、何かを指し示している。十字架を指し示している。何故なら、「わたしの時は来てしまっていない」とイエスは言ったのだから、「わたしの時」とは何かを指し示す行為を行ったと解すべきであろう。
水をワインに変えるという出来事は「わたしの時」である十字架を指し示している。十字架の意味を指し示している。十字架が、この世の慣習を覆す出来事であることを指し示している。何故なら、皆が酔ってしまった時まで、良いワインを取っておいたと言われているからである。酔いが回ってしまったら、安いワインでも良いのに、良いワインを取っておくとは見上げた心がけだと解されもする。しかし、先に安いワインで酔わしておいて、良いワインは後に取っておくということは、良いものを先に飲ませないということになり、誉められたことではない。祝いに駆けつけてくれた人たちのために安いものを出して、自分のために良いものを取っておいたと思われても仕方ないのである。祝宴の管理者がそのように言うのは、イエスが水から変えたワインが上質のワインだったからである。上質のワインを造ることができるイエスの力は神の力である。それは、叱責されるような上質性を最後までとっておき、行うことがイエスの十字架だと指し示していることになる。最後の最後に、真実なものを理解する者に差し出すのが十字架なのである。
すべてが潰えたところで、良きもの、真実なものが差し出される。それが十字架である。分かる者にしか分からない真実として差し出されているのが十字架である。それゆえに、イエスを信じたと言われている弟子たちは、イエスのしるしを読み間違ったのだ。しるしという不可思議な出来事を起こすイエスの力を信じたかのように言われているからである。彼らはこの出来事に、イエスの十字架を読まなければならないのだ。
では、このしるしがイエスの十字架を指し示しているのであれば、十字架は良いものであるということになる。そうである。十字架は最上の良いものである。しかし、この世の価値では叱責されるもの、責められるものである。イエスの時にしか理解されないものである。それゆえに、イエスは「わたしの時は来てしまっていない」と言ったのだ。誰も理解しないであろうことを承知で、イエスは母の求めに応じ、その行為を通してイエスの時を指し示したのだ。
イエスの時は、良いものを理解するときである。イエスの時を受け入れた者が理解する。イエスの時を、十字架の時を受け入れた者が理解する。イエスの時が、自分にとって良きものであることを理解する。その人は、イエスの時の中でイエスを信じるのである。自分の時の中では、叱責しか起こらない。非難しか起こらない。不可思議な出来事を不可思議さゆえに信じるという表層的な、人間的信仰しか起こらない。イエスの時に入ってこそ、神からの信仰が与えられる。イエスの時が来てしまったとき、入れられる者が入れられる。それがイエスが支配する時、十字架の時である。この世の価値が逆転される時である。その時を指し示したのが、良いワインである。
さて、このワインが造られるために働いた奉仕者たちは、自分たちが何をしているか分かっていない。その意味を理解してない。しかし、イエスの言葉に従って行った。十字架を起こした祭司長、律法学者たちも、自分たちが何をしているか分からなかった。イエスの言葉に従って、イエスを裁いた。彼らは自分たちは良いことをしていると思っていた。確かに、良いことをしていたのだ。十字架を起こすという良いことを。彼らにとって、十字架は人類全体のためではなく、自分たちのための良いことであった。それなのに、神は全人類のために良いこととした。彼らは人類全体に仕えているとは思っていない。理解してもいない。しかし、神が彼らの罪を用いて起こされた十字架は、人類全体にとって良いこととなった。奉仕者たちが理解せずとも、良いワインが造られたことを考えてみれば、我々の罪にも関わらず、神は良きものを造り給うのだ。我々が悪しき思いに支配され、神の言を聞き、それに反した悪しきことをなしたとしても、神は良きものとし給う。神の言によって行ったからである。そのように、神はこの世の悪もご自身の計画のために用い給うのだ。
我々は自分がしていることを理解していない。自分がしていることが、神に用いられていることも理解していない。理解しない、物事の真実が見えない我々であることを知らなければならない。それでもなお、神が良きことを行い給うと信じなければならない。神の意志がなるのだと信じなければならない。
我々は罪人である。この一年も罪人として生きた。多くの罪を犯した。それにも関わらず、神は良きことを始め給う。我らの罪から善きものを生みだし給う。我々の罪の中で、「今や、それは芽生えている」のだ。これが、今日我々が聞くべきことである。奉仕者たち、弟子たちの無理解にも関わらず、神の業は行われている。何をしているか分からない我々を通して、神の業は行われている。そして、最後に善きものが生まれる。従って、我々は何も誇ることができない。我々がなしたのではないからである。神がなさせ給うた。神が用い給うた。神が恵み給うた。この一年の我々の歩みは、神の業であった。神の御業の中で、我々の罪は覆され、善きものが生まれる。イエスの時の中で、生まれる。
未だ十字架がならず、イエスの時ではなくとも、イエスは十字架を指し示すしるしを起こし給うた。イエスの時に向かって、起こし給うた。イエスの時が、すべての根底にあるのだ。我々の時の根底にあるのだ。罪深き自らを省みるとき、その根底、イエスの時が見えてくる。すでに入れられていたイエスの時が現れる。イエスが支配し給う時が、我々の時である。真実な時である。良い時である。我々を用い給う神に感謝しよう。我々の罪を越えて、善きものを生みだし給う神に感謝しよう。どうしようもない罪人をイエスの時の中に入れ給う神に感謝しよう。この一年の罪を神の前に告白し、善きものになし給えと祈ろう。
あなたの罪がどれほど大きくとも、どれほど深くとも、神はご自身の計画を遂行し給う。イエスの時の中で、すべてが善きものに変えられる。ただの水が良いワインに変えられたように、最後の最後に変え給う。望みの潰えたときに、変え給う。どうか、神が、我らをイエスの時の中に生かしてくださるように。神が、我らの罪を善きものに変え給うとき、我らがその業を受け入れ、感謝し、従う者とされますように。善きものが備えられていることを、今日我らは信頼し、この一年を善きものとして受け入れよう。神の賜物が備えられた一年を生かされた感謝を、神に献げよう。あなたの罪にも関わらず、神はあなたを生かし、用い給うたのだから。
神は真実を行い給う。
祈ります。
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