「キリストの勝利に」

2022年11月6日(全聖徒主日)
ヨハネによる福音書16章25節〜33節

「しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」とイエスは言います。「勇気を出す」という言葉は、何事も恐れず物事に取り組むということです。しかし、ここでイエスが言う「勇気」とは自分に自信を持つということではありません。なぜなら、イエスは続けて「わたしは既に世に勝っている。」と言うからです。

この言葉は現在完了形の言葉ですから、「わたしは打ち負かしてしまっている、世を」が原文です。つまり、ここで語っているイエスは復活したイエスだということになります。どうしてかと言えば、イエスが「世を打ち負かしてしまっている」のは十字架と復活の後だからです。ところが、イエスはこの言葉を未来形で語るのではありません。現在完了形です。イエスが弟子たちに語っているのは、十字架以前の時点です。それなのに、十字架と復活はすでに越えられてしまっていることとして語られているわけです。どうしてでしょうか。

神学者たちの間では、この不思議な現在完了形が問題になりました。そして、ヨハネによる福音書を分析した結果、ヨハネによる福音書のイエスは最初から最後まで、復活後のイエスでなければ語り得ないことを語っていると理解したのです。つまり、ヨハネによる福音書のイエスは、復活したイエスだというわけです。そんなはずはないと誰もが思います。ヨハネ福音書の記者はどうしてそのように記したのでしょうか。

ヨハネによる福音書を書いたヨハネは、おそらく彼自身の信仰的経験に基づいて福音書を書いています。紀元後100年頃に書かれたであろうと言われていますので、イエスはすでに復活して70年近くが経っている。このヨハネがイエスの弟子であったヨハネだと言われていますから、彼はイエスに出会って、十字架と復活を越えたイエスと共に生きる経験を土台として、この福音書を書いているのです。だから、ヨハネにとっては、イエスは復活したイエスなのです。たとえ、この福音書の中で、イエスが十字架の死を迎えるとしても、そのお方はすでに復活したお方であるということなのです。大貫隆という神学者は、この福音書は一度最後まで読んで、再び最初から読むときに理解できると言っています。

イエスが「世を打ち負かしてしまっている」ということが、弟子たちが「勇気を出す」理由だとイエスはおっしゃっているように思えます。それなのに、ここには理由を示す「なぜなら」という言葉はありません。「勇気を出しなさい」とイエスは言いますが、「なぜなら、わたしは世を打ち負かすであろうから」とは言わないのです。あるいは「打ち負かしたから」とも言わないのです。ただ「わたしは世を打ち負かしてしまっている」と完了してしまっている現在を宣言しているだけです。「勇気を出す」根拠が「イエスの勝利」であるならば、イエスの勝利が勇気を出す理由でなければなりません。しかし、イエスは理由とは言わないのです。なぜなら、弟子たちが勇気を出すのは、イエスの勝利が土台ではあっても理由ではないということです。

「理由」というものは、その根拠のように思えますが、実は時間的順序のようなものです。理由があって、次に行動が促される。イエスの勝利があって、弟子たちの勇気を出すことが行われる。というような時間的順序になるものが「理由」です。これが未来の出来事であるならば、「理由」は希望としての未来だということになります。イエスの勝利が弟子たちの行動の理由になるならば、非常に狭い範囲の動機付けとなってしまいます。時間的には当時の弟子たちだけに関わる事柄になってしまいます。しかし、動機付けではなく、土台であるならば、時間的に離れていても変わりないことになります。イエスが勝利しているから、勇気を出すとすれば、イエスに続く感じになります。つまり、弟子たちがイエスと同じようにできるということになるのです。しかし、土台である根拠だとすれば、イエスによって勇気を出すことになります。それは、彼らがイエスと同じになるのではなく、イエスの勝利に包まれ、支えられて、勇気を出すのです。そうであれば、その勇気は弟子たちの自分への自信ではないのです。イエスへの信頼なのです。

「勇気を出す」ことがイエスへの信頼であるならば、弟子たちは自分自身については自信はないことになります。自信はないけれども、キリストの勝利に支えられていることに信頼して、勇気を出すのです。この勇気は、向こう見ずなことを行うことではありません。向こう見ずな勇気というものは、結果がどうなろうと構わずにやってみるということです。しかし、イエスがおっしゃる勝利は、結果が分かっているのです。「わたしは打ち負かしてしまっている、世を」とイエスはおっしゃっているのですから、勝利という結果は完了してしまっているのです。そうであれば、弟子たちの勇気は、すでに完了してしまっていることの中で、ただイエスに信頼するということになるのです。どうなるか分からない未来に向かって頑張るということではないのです。

イエスは、弟子たちに言います。「あなたがたには世で苦難がある」と。弟子たちに苦難があるという現実を認識するようにと語っています。この現実は、イエスが「世を打ち負かしてしまっている」という現在完了の中での現実なのです。だから、苦難があろうとも、苦難はキリストの勝利に飲み込まれてしまっている苦難だと、イエスはおっしゃっているのです。これは殉教者たちの信仰でもありました。

全聖徒主日という記念日は、殉教者を覚える日です。かつて迫害が激しかった時代に、苦難を引き受けて、信仰に殉じた人たちを覚える日。それが全聖徒の日です。この人たちは、イエスがおっしゃるように「世で苦難がある」という現実を、信仰を持って生きたのです。捕まれば十字架刑に処せられる時代に、イエスをキリストと信じ、その信仰を捨てることなく、死に至るまで従い続けた人たちを覚えるのが全聖徒の日の元々の意味です。その後、殉教者ではなくとも、死に至るまでキリストに従い続けた人を覚える日にもなっていきました。ルーテル教会では、すべてのキリスト者を「聖なる者とされた人々」と考えています。それは、彼らが「聖なる者」であるのは、彼らの信仰が完全であるからではなく、ただキリストが彼らをご自分のものとしたからなのです。だからこそ、イエスは心許ない弟子たちにも言うのです。「勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝っている」と。

イエスが世を支配しておられるということがすでに決定してしまっている世界において、弟子たちに苦難があったとしても、キリストの勝利は完了してしまっているのです。このキリストの勝利に信頼している者たちは、すでに完了してしまっている勝利に包まれているのです。だから、恐れる必要はない。ただわたしに信頼していれば良いと、イエスはおっしゃるのです。わたしは勝利してしまっていて、この勝利は変わることがないのだと。それが現在完了の意味なのです。

わたしたちは、自分の苦難に際して、うろたえます。苦難で終わってしまい、自分は滅びるのではないかと不安になるからです。ところが、イエスは「わたしは打ち負かしてしまっている、世を」と言うのです。あなたがたが負うことになる苦難は、見える形では苦難であるけれども、わたしの勝利の中で起こっていることなのだから、苦難は苦難ではないのだと、イエスはおっしゃっているのです。あなたが負う苦難は、わたしの勝利によって越えられてしまっている苦難なのだと言うのです。

全聖徒の日に覚える先に召された人々も、このキリストの勝利に支えられて生きたのです。キリストの勝利に守られて生きたのです。自らの苦しみがキリストの勝利に包まれていることを信じたのです。彼らは、キリストの勝利に信頼して、歩み続けたのです。何も恐れる必要はない。自分に力がないことは分かっている。しかし、キリストに信頼して歩んで行けば良いと生きたのです。彼らもまた、キリストの勝利に包まれたキリストの証人です。わたしたちもまたキリストの勝利に包まれていることを信じて、証人として歩み続けましょう。

祈ります。

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