2025年4月13日(枝の主日)
ルカによる福音書19章28節-40節
今日はイエスのエルサレム入城を記念する枝の主日を守っていますが、入城の際に弟子の群が叫ぶ讃美「主の名によって来られる方、王に、祝福があるように」という言葉は、以前13章35節でイエスがおっしゃった言葉です。そこではこう言われていました。「言っておくが、お前たちは、『主の名によって来られる方に、祝福があるように』と言う時が来るまで、決してわたしを見ることがない。」と、エルサレム入城の際の群衆の讃美と同じ言葉が述べられていました。ということは、イエスを迎える群衆は「イエスを見た」ということのように思えます。そして、彼らの讃美を止めさせようとするファリサイ派の人に対してイエスが言う言葉、「石が叫び出す」という言葉が語っているのは、この讃美は止められないということです。ここで良く考えて見なければならないのは、「イエスを見る」とはどういうことか、ということです。
先の13章では、預言者はエルサレム以外で死ぬことはないとおっしゃっていました。その後で、この讃美を叫ぶまで、「わたしを見ることはない」とイエスはおっしゃったのです。ということは、エルサレムで十字架によって殺されることに「主の名によって来られる方」を認めるとき、「イエスを見る」であろうと、イエスはおっしゃったわけです。しかし、この群衆はまだ十字架を見ていませんし、自分たちの王がやって来たかのように讃美しています。この讃美している群衆は、イエスを見たと言えるのでしょうか。
わたしたちが何かを見るということは、そこに心を向けているということです。心を向けていない場合は、ただ見えているだけで、すぐに忘れてしまいます。見えているものに心が向いているならば、見えているものの状態が自分の思いとは違っていても、その背後にあるものを見ているでしょう。そのような意味で、イエスの十字架に「主の名によって来られる方」を見て、讃美する人は、十字架にイエスを見ていると言えます。ところが、今日の群衆は十字架をまだ見てはいません。自分たちの希望する王の姿を、子ろばに乗るイエスに重ねています。これは本当にイエスを見ているのでしょうか。
しかし、イエスはこの群衆の叫びを石の叫びだとおしゃっています。群衆の叫びを止めさせてくれとイエスに言うファリサイ派の人に向かって、「もし、この人たちが静まるであろうならば、石たちが叫ぶであろう。」とイエスは答えています。原文では未来形の仮定法です。この言葉が意味しているのは、このようなことです。石たちが叫ぶというあり得ないことが起こる未来が来たるならば、この人たちは静まるであろうということです。つまり、この人たちの叫びを人間が静まらせることはできないということですが、それだけに留まらず、一般的にあり得ないと思われること「石が叫ぶ」ということが起こるとき、彼らの讃美の叫びは静まることになるであろうという預言になります。これはどういうことでしょうか。
「一般的にあり得ないことが起こる」ということは、神の働きによって起こるものです。土の塵から造られた人間が生きるものとなったのは、神が土で造られた存在に「いのちの息」を吹き込んだからです。土が生きるはずがないのに、吹き込まれた神の息があるとき、土が生きるのです。それと同じく、石が叫ぶなどということが起こるはずはないのは、わたしたちが知っている自然なことです。しかし、それが起こるとすれば、神が叫ぶようにしておられることになります。そして、群衆の讃美の叫びも神が叫ぶようにしておられるということです。それを人間が止めることはできないのです。
そうであれば、群衆の讃美は「イエスを見る」こととつながっているのでしょうか。もちろん、神が叫ぶようにしている讃美ですから、「イエスを見る」ことにつながるでしょう。しかし、この群衆が十字架のイエスを見たときに、「主の名によって来られる方に祝福があるように」と讃美できるかという問題が残っています。群衆の讃美の理由はこのように説明されています。「自分の見たあらゆる奇跡のことで喜び、声高らかに神を賛美し始めた」と。つまり、イエスが行った不思議な業のことで喜んだからだと説明されています。ということは、十字架のイエスを見たから讃美したわけではありません。それは、自分たちが讃美できるような素晴らしさの中に神の働きを見ているということです。讃美できないような出来事、つまりイエスの殺害の中に神の働きを見てはいないのです。もし、このような讃美をする人がいれば、イエス殺害を喜んでいると思われてしまうでしょう。ところが、その喜びは自分のために十字架を負ってくださったお方への感謝であり、あり得ない罪の赦しをいただいた者の讃美です。
「石の叫び」もあり得ないことが神の働きによって起こるという意味ですが、十字架のイエスを誉め称えることも、神の働きによって起こる讃美なのです。その讃美を歌うとき、わたしたちはイエスを見ているのです。わたしの救い主として、イエスを見ているのです。
イエスがファリサイ派の人に対して言う「石が叫ぶであろう」という言葉が意味しているのは、群衆の讃美の叫びを起こしているのは神だということでしょう。そして、その叫びを止めることはできないという意味です。だからと言って、群衆はイエスを見ているとまでは言えないのです。
讃美の叫びを起こしておられる神がおられるのですが、イエスを見る人は、その讃美を十字架の後にも叫び続ける人なのです。それは、群衆の中で叫ぶのではなく、一人の人間として十字架の下に立って、叫ぶのです。十字架のイエスが「主の名によって来られる方」だと叫ぶのです。それは、わたしの救い主だと罪を告白することでもあります。
エルサレムに入城するイエスを見た人たちは、いまだ半分しか見ていないと言っても良いでしょう。十字架のイエスを見た後で、この讃美を叫ぶ人だけが「イエスを見る」のです。それはまさに「石が叫ぶ」ことです。起こり得ない讃美が起こるということです。そのとき、わたしたちは神の働きの中で、信仰を起こされて叫ぶのです。十字架を見上げながら、「主の名によって来られる方に、祝福があるように」と。
そのような意味では、わたしたちもまた、イエスの十字架を見てはいません。枝の主日である今日から始まる聖なる週、聖週間を過ごして後、復活という素晴らしい出来事を経験した後に、再び十字架を仰ぐとき、わたしたちはイエスを見るでしょう。真実にイエスを見るでしょう。それは、わたしの罪のために十字架に架かり復活させられたお方を、わたしの救い主として見るということです。そのとき、わたしたちは「石の叫び」を叫ぶでしょう。十字架こそ、「主の名によって来られる方」の栄光だと、叫ぶでしょう。十字架のイエスこそ、神に祝福されたお方だと叫ぶでしょう。その叫びを、わたしたち一人ひとりが叫ぶためにも、聖なる週をどのように過ごすかが大事になってきます。
この聖なる週の一日一日を自らの罪を見詰めながら過ごすとき、わたしたちは一日一日、わたしの心に十字架を刻むのです。自分の罪を刻むのです。自分の罪のために、十字架を負ってくださっているイエスを心に刻むのです。もちろん、それさえもわたしたちにできることではなく、あなたの中に神さまが働いてくださるときに可能となっていくことです。ですから、十字架がわたしの罪のためであると思い込もうとすることではありません。ただ、自分の罪を見詰めるとき、神があなたの心に十字架を刻んでくださるということです。
わたしたちのうちにいのちの息を吹き込んでくださった神の息に従って、あなたが生きていることを覚えましょう。わたしのいのちはわたしのものではないことを覚えましょう。わたしの力がわたしを変えることはできないことを覚えましょう。神の息がわたしを生きるものにしたように、神の力がわたしを造り替えることができるのです。
聖なる週を過ごすわたしたち一人ひとりが、ご復活の日に主を見る者とされるため、あなたの一日一日を十字架の主が共に歩んでくださいますように。