「神の配在」

2025年4月18日(聖週金曜日)
ヨハネによる福音書19章23節-42節

わたしたちの世界は、すべて神さまが配置なさったもの。置かれているものはすべて、神さまのご意志があって、そこに置かれています。わたしたち一人ひとりも置かれたところで、それぞれに生かされています。今日の聖書に記されている人たちはすべて、神さまがそこに置いた人たちです。その一人ひとりは、神さまが置かれたところで、神さまのご意志を受け入れて生きるか、ご意志を無視して生きるかの二つの人間に分かれます。

祭司長たちや兵士たち、ユダも神さまのご意志に反して、自分の思いで動いています。イエスの死の前後に出てくるマリアやイエスの愛した弟子、またアリマタヤのヨセフやニコデモは神さまのご意志に素直に動かされています。神さまのご意志に従う人と従わない人。そのすべての人を神さまはそこに置いたのです。神さまの配在によって、その人たちは生かされています。そして、今ここにいるわたしたちも神さまの配在によって、ここに置かれ、生かされています。この礼拝をこの時間にオンラインで守っている方々もそうです。神さまが関わっておられないことは何一つありません。そして、すべてのことは神さまの必然として、そこで起こっているのです。

イエスを侮辱して、十字架に架けて殺す人たちの行為は、神さまの意志に反しているとは言っても、神さまが関わっています。神さまの言葉が語られているがゆえに、それに反していることも行うことになります。イエスの言葉に従って、家族とされるマリアと弟子も、神さまの関わりの中で家族とされる。イエスを墓に葬るヨセフとニコデモも、神さまに起こされた思いに従って、イエスの体を引き取る。そして、墓にイエスを置く。その墓を、そこに置いたのも神さまです。誰も使ったことのない墓がそこにあるのも神さまの配在です。

すべてのことが神さまによって整えられていた。それが、ヨハネ福音書が語るイエスの十字架と死の出来事です。神さまが関わらないことなど何一つないということ以上に、ヨハネ福音書1章3節で言われていたことがここでも起こっているということです。「万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。」
すべてのことは神の配在。それぞれに置かれたところで、置いたお方のご意志に従って生きるようにと招かれている。その招きに従うか従わないかは、その人が受け入れるか、選択するかによって分かれるのです。

受け入れる人は受動的に生きています。受け入れない人は、自分で選択して能動的に生きています。どちらも自分を生きていると思っています。しかし、わたしたち人間は選択して行動するという能動的なことが生きることだと思っているものです。一方、受動的に生きるということは自分を失っていると思う人もいるのです。ところが、それはまったく反対なのです。

わたしたちの考えていることとはまったく反対のところで、神さまの意志が働いているということでもありますが、そのご意志を受け入れるということにおいて、神さまに造られた自分を受け入れて生きることができるのです。これを受け入れることができない人が能動的に自分の思いに従った選択を実行し、その選択が実現されるように働くことになるのです。そのとき、神さまの意志は無視されます。それでも、自分の思いが実現したときには、その人は神さまに感謝するのかも知れません。その人にとっては、自分の思いが実現することが重要なことで、実現しなければ神さまに感謝などしないのです。

置かれた自分を受け入れている人は、自分の思いではなく、神さまが与えてくださった現実の中で為すべきことを為していきます。それが、アリマタヤのヨセフとニコデモです。でも、彼らは表だってイエスの弟子として生きてはいませんでした。「ユダヤ人たちを恐れて、そのことを隠していた」と言われています。それなのに、ヨセフはピラトにイエスの体の引き取りを申し出たのです。ということは、そのときには隠さなかったということです。ただし、ピラトはユダヤ人ではありませんので、隠す必要がなかったとも思えます。それでも、いずれ他のユダヤ人たちに分かってしまうことは承知しているはずです。そのような危険を冒しても、隠していた人が、隠れなく生きるということがここで起こっているのです。イエスの十字架の死が、ヨセフを隠れなく生きるようにしたと言えます。ヨセフは、イエスの死を自分の責任として、自分の罪を感じ、隠すことなく生きることへと転換したのでしょう。ニコデモも、このときには人目を忍ぶということはありませんでした。二人とも、イエスの弟子ということを隠すことなく、イエスの体を引き取って、墓に置いたのです。それは、彼らに与えられた使命を感じたからです。

彼らには、ユダヤ人たちの議員という立場があったとも言われますが、その立場に置いたのは神さまです。神さまが置いた立場によって、神さまのご意志に従って働くことができるということがあるのです。その神さまのご意志による配在を彼らは引き受けたのです。これは、使命を感じたことでしょう。このとき、イエスの死、十字架の死は、この人たちを闇から連れ出した。それこそが、光としてのロゴスであるイエスの啓示だとも言えます。

さて、引き受けることとは正反対の事柄が、選択です。自分で選択するとき、わたしたちは自分の立場に有利なものを選択します。不利なものを選択する人はいません。だから、選択は常に自己都合の選択です。自己都合ですから、選択しているとき、わたしたちは何も引き受けてはいないのです。引き受けるというのは、自分に都合が悪くても引き受けることです。力がないと思っても引き受けることです。ですから、そこには選択はありません。もし、そこに選択があるとすれば、自分の都合を捨てて、神さまの置かれたご意志を選択するという意味で、選択しているということです。

この自分の都合を捨てることを、「自分を捨てて」とイエスはおっしゃっています。そして「自分の十字架を取って、わたしに従いなさい」と、引き受けることを教えてくださっています。これがイエスに従うということです。

この聖週金曜日は、イエスの十字架を覚える日ですが、それはイエスがおっしゃるように、終極に達した神さまのご意志を思い起こすときです。神さまのご意志が、すべてのものを整えて、最終的な終わりへと導いてくださったことを覚えるときです。そして、イエスのように自分を捨てて、自分の十字架を取って、生きていくことを引き受ける生き方へと方向転換するときです。

わたしたちは、今日、ここに置かれています。神さまによって、置かれています。十字架のイエスが、わたしをここへと招いてくださいました。あなたを招いてくださいました。ここに居合わせている一人ひとりを神さまは導いてくださった。このなごや希望教会の礼拝堂だけではなく、今YouTubeでライブ配信を使って礼拝を守っている一人ひとりも、掛川菊川教会の方々も、このときここに神さまによって導かれたのです。そして、神さまの導きに素直に従ったあなたであり、わたしであることを心に刻みましょう。

わたしたちの神は、十字架を通して、わたしたちに従順を生きる道を開いてくださいました。十字架の主を仰ぐわたしが、そしてあなたが主のものとして生きていく道を開いてくださいました。それぞれに与えられた道は違います。置かれたところも違います。しかし、置いたお方はひとり。父なる神さまです。

今日の日課の最後でこのように言われています。「この墓が近かったので、そこにイエスを納めた。」と。原文では、「イエスを置いた」となっています。彼らが墓に置いたのは、イエスの体ではなくて、イエスだったと述べられているのです。イエスの死んだ体を置いたのではない。イエス御自身を置いた。それは、神さまが墓に置かせたということです。そして、置いた神さまがイエスを復活させるのです。

聖なる金曜日に、わたしたちは、自分の選択を捨てて、ここにいるように置かれた。墓に置かれたイエスのように神さまによって置かれている。わたしが歩むべき道を、それぞれに置かれたように置かれたところで、生きて行きましょう。そのとき、あなたも主と共に復活に与るのです。置いてくださった神の力によって、起こされる復活に与かるのです。

Comments are closed.