「見てしまっている者」

2025年4月20日(復活祭)
ヨハネによる福音書20章1節-18節

主のご復活おめでとうございます。

みなさんは、主を見ましたか。わたしは主を見ました。見たというよりも、感じたのですが。あるとき、わたしの体から何かが「ズルッ」とずれたので、「あれ?」と思ったのですが、それはわたしの体と同じ形の霊のようなものがわたしから外れたように感じた出来事でした。そのときに、わたしは自分の罪を思いました。イエスさまがわたしから離れてしまわれたと思ったのです。でも、罪を思ったとき、それは元に戻りました。面白いですよね。

こんな話をすると、「ちょっと、あやしい人」と思われるかも知れませんね。でも、これは真実にわたしが経験したことです。幻想や妄想と思う人もいるでしょう。それでも、確かに「わたしは主を見ました」と言える経験です。マリアの話を聞いた弟子たちも、「そんなことがあるはずがない」と思ったことでしょう。そして、「マリアはそれほどに主を愛していたのだな」とも思ったのではないかと思います。しかし、経験したマリアにとっては真実だった。誰も、マリアの内なる真実を否定することはできません。そして、マリアに現れたイエスは、マリアを罪の状態から解き放ってくださった。だから、「わたしに触れるな」とおっしゃった。その後で、罪の状態からの解放を伝える使命をマリアは与えられました。

「見る」ということにおいては、見たことに心動かされるということがあるわけです。その場合、「見たこと」そのものが、わたしが動くように働いたと言えます。見たので、動かざるを得ないと動くとき、その人は見たことによって使命を与えられていると言えます。たとえそれが小さなことであろうとも、その人の使命があるのです。誰かが道で倒れていたならば、助けなければと思わず動いてしまうでしょう。それは、「見たこと」そのものがわたしに使命を与えたということです。

先ほどのわたしの場合は、人間的に物事を判断しようとするときに、主は離れてしまうという罪の有り様を伝える使命を与えられたと思いました。その受け取った使命は、直接的に言葉で他者に伝えるというよりも生き方の大元にある信仰的在り方を通して伝えることだとも言えます。

マリアの場合は、天使の言葉を伝えたのではありますが、その言葉に促された自分の生き方によって、これからも伝えていくものでもあるでしょう。イエスは、父なる神のもとに生きておられるということを伝えていく生き方。それが、見てしまっている者の生き方になるということです。それはまた、実際に見ていない人でも、マリアの伝えた言葉を信じる人もまた、同じように主を見てしまっている者として生きることになるということです。なぜなら、マリアが見てしまっているのは、言葉を与えたお方の心だからです。

わたしたちキリスト者は、見てしまっている者なのです。信じる心を受け取って生きている時点で、わたしは主を見てしまっているのです。それを自覚していないとしても、信じている人はそうなのだと、マリアの生き方が教えてくれているのです。それはまた、見たことを誇ることではないということをも語っています。

では、見てしまっている者はそうしなければならないのか、と言えば、そうではありません。そうせざるを得ない者とされているということです。そうしなければならないと考えるとき、わたしは行った報いを求めています。しかし、そうせざるを得ないと生きるとき、報いは求めません。それが見てしまっている者の生き方なのです。

このように生きる道を与えてくださったお方の心に触れて、わたしの思いを捨てて生きる。自分の十字架を取って生きる。主に従って生きる。そうせざるを得ないと生きる。それがキリスト者なのです。主もまた、神さまのご意志がなることを信じて、ご自分に与えられた十字架を取られた。このお方によって、救われたわたしもまた、同じように自分の十字架を取って生きる。それだけがわたしたちが真実に生きることなのです。そのとき、わたしは神さまに造られたわたしを生きることができるのです。

主のご復活は、わたしがわたしを真実に生きるために与えられた出来事なのです。わざわざわたしのためにご自身を神さまに献げてくださったお方の心を受け取ることが、わたしの復活なのです。真実のわたしの復活。それが、主がわたしに現れてくださったことなのです。そのわたしが、主によって復活したわたしを生きるとき、主はわたしのうちに生きてくださるのです。わたしのために、わたしにご自身を見せてくださったお方が、わたしを生かしてくださる。主は、そのためにわざわざ現れてくださった。そのお心を受け取ることが、わたしの復活となっていくのです。

あなたがあなたであるというのは、当たり前のことではないのです。十字架の死を通して、復活してくださったお方がおられてこそ、わたしはわたしを生きることができる。この信仰を与えてくださる主イエスこそ、わたしの主、わたしの神なのです。

主を見てしまっているマリアは、主に触れることを止められました。それは、主の心を受け取るために必要な断絶だった。主がマリアに見せたのは、ご自身の心だからです。心をいただいた者は、心を伝えることができる。触れなくとも、伝えることができる心。それがマリアに与えられた使命を表しています。

イエスは、父なる神のもとに行くと、わたしの兄弟たちに伝えなさいとおっしゃった。それは、父なる神さまを信じる人たちには、常に神さまが一緒にいてくださるということです。目の前にいなくとも、天におられるイエス。そのお方は、わたしたち、後のキリスト者が信じて生きるときに、天につながっていることを教えてくださっています。信じるということは、わたしが信じる気持ちになることではありません。信じる心を与えられることです。ですから、信じるということは、神さまによって信じるようにされているということです。神さまの力の下にある人は、天の力に包まれているのです。

今日、洗礼を受ける二人は洗礼を受けるように導かれた二人です。それは、信じる心を与えられたということです。その心に従って、洗礼を受ける。それは、神さまの心に従って受ける洗礼なのです。この二人を、みことばによって育み、成長させてくださったのは神です。アポロは植え、わたしは水を注いだ、と使徒パウロが語っている通りです。アポロもパウロも、それぞれに与えられた賜物によって、神さまに用いられて、植え、水を注いだ。しかし、成長させてくださったのは神です。

わたしたちが、今日洗礼を受けるこの二人に関わることになったことを自分の成果のように思う人もいるかも知れません。しかし、神の器とされた人は、そのような心にはなりません。真実の神の器とされた人は、ただ神さまに自分の体を献げて生きるだけです。そのような人を神さまは用いてくださいます。マグダラのマリアのように、主のお心を伝える人にされます。そのとき、わたしたちは神さまが行われる宣教に仕えているのです。他者のために生きる人にされているのです。

主を見てしまっているわたしは、主に用いられる者とされている。ここに生きるとき、わたしの復活もこの地上で起こるのです。なぜなら、あなたは自分のために生きていないからです。主のために、他者のために、生きているからです。それが主を見てしまっている者の生き方なのです。

二人のために、さまざまに用いられたわたしたちがいます。わたしたちが、主のものとして生きるとき、主はわたしたちを通して、ご自身を現してくださる。この使命に生きるあなたもわたしも、主のものとして一つの体の働きに参与しているのです。主はご自分の体と血をわたしたち召された者に与え、わたしたちは主と一つとされる。主はわたしのもの。わたしは主のもの。そして、父なる神のもの。この神秘的いのちを共に生きるわたしたちが教会なのです。あなたもわたしも主のもの、と互いを認め合い、主に与えられた使命を生きていきましょう。

イースターおめでとうございます。

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