「イエスを愛する者」

2025年5月4日(復活後第3主日)
ヨハネによる福音書21章1節-19節

神を信じることと神を愛することとはどう違うのでしょうか。愛するということは、愛の対象と自分とがひとつになることです。信じるということも同じように信仰の対象とわたしとがひとつとなることです。神を愛することと神を信じることは同じなのです。その愛と信仰の大元にあるのは、神の愛と信仰です。神がわたしを愛してくださったことを受け取って、神を愛する。神がわたしに信仰を与えてくださったことを受け取って、素直に神に信頼する。これが愛と信仰の一致した姿です。

わたしたちはイエスを愛しているでしょうか。イエスに愛されているというところに留まっているのではないでしょうか。わたしたちがイエスを愛するところに至るとき、わたしたちはイエスと同じように生きようとするでしょう。しかし、イエスに愛されているところに留まっているだけならば、愛されることだけを求めて、他者に仕えるところには至りません。イエスさまは優しいお方だから、わたしを愛してくれる。そして、イエスの愛に甘えて生きる。自分自身を省みて生きることは起こりません。「今はできません」、「あれが終わってから」と自己弁護するだけ。イエスの愛を受け取り、イエスを愛している人は、イエスと同じように黙って行うでしょう。ペトロも、自己弁護も自己主張もしていません。ただ、「あなたがご存知です」と答えるだけ。

今日、ペトロに「わたしを愛しているか」と問われるイエスは、イエスを愛する者としてイエスに従って生きて欲しいと願っておられる。だからこそ、イエスは三度に渡ってイエスの羊たちへの関わり方を指示しています。

最初は「小羊を食べさせる」こと。二回目は小羊が食べて一人前の羊になったところで「羊を牧すること」が指示されています。さらに、三回目はまた「羊を食べさせること」が述べられています。さて、ここで「食べさせる」こと、「養うこと」は何を食べさせるのでしょうか。もちろん、イエスの言葉、イエスのロゴスを食べさせることでしょう。イエスの言葉を食べて、成長した羊はイエスの言葉が育てた羊です。その羊がイエスから離れないように見守るのが「牧すること」です。また、狼から守ることもあるでしょうね。その羊がさらにイエスの言葉を食べて生きていくことができるように仕えること。それがペトロに使命として与えられています。

ヨハネによる福音書の4章でサマリアの女とイエスが対話するところで、対話が終わったとき、町に食べ物を買いに行っていた弟子たちが戻って、イエスに食べ物を差し出します。そのとき、イエスはこうおっしゃっています。「わたしにはあなたがたの知らない食べ物がある」と。おそらく、イエスが小羊に食べさせるように指示しているのは、このイエスの食べ物でしょう。その食べ物とは、神の意志の完成という食べ物だとイエスはおっしゃっています。それは十字架と復活の出来事です。

十字架と復活の出来事が食べ物であるとすれば、ペトロもその食べ物を食べて、イエスと同じところに生きていることになります。イエスと同じところに生きているペトロが、他の小羊たちにイエスの食べ物を食べさせる。それはまた、聖餐式というイエスご自身の体と血であるとも言えます。ただし、聖餐式に与っていれば、自動的に小羊が成長するのかと言えば、そうではないでしょう。イエスの体と血が語っている事柄を自分のものとして受け入れることが必要なのです。わたしたちの礼拝式が罪の告白と赦しの言葉で始まっているのはそのためなのです。自らを省みて、聖餐に与るとき、聖餐がわたしのための神の食べ物となる。そのために、イエスの言葉を教える働きをペトロが行うと言えます。

イエスが最後に、ペトロに言う言葉があります。「あなたは、若いときは、自分で帯を締めて、行きたいところへ行っていた。しかし、年をとると、両手を伸ばして、他の人に帯を締められ、行きたくないところへ連れて行かれる」。この言葉の意味は「ペトロがどのような死に方で、神の栄光を現すようになるかを示そうとして、イエスはこう言われたのである。」と解説されています。ペトロは死を通して、神を栄光化するということです。それこそが、最終的なペトロの使命だと言えます。「両手を伸ばして、他の人に帯を締められ、行きたくないところへ連れて行かれる。」という死に方。それは、イエスと同じ死に方。行きたくないところに連れて行かれることを受け入れる生き方です。

幼い頃は、イエスが言うように、自分で歩くことができるようになると、行きたいところに行くものです。年を取ると、行きたいところにも行けなくなってしまいます。そして、行きたくないところに連れて行かれるということも起こります。このとき、他人が連れて行くわけですが、その連れて行く出来事の中に神さまの連れて行く力が働いていると受け入れること。それが、ペトロが最後に示す神への信頼でしょう。神への信頼は、十字架と復活の出来事を受け入れたイエスご自身の生き方に明らかに示されていることなのです。

わたしたちは、イエスに従うと言いながらも、自分の思いに従っています。自分に都合の良い環境を手に入れるために必死になっています。神さまが置かれたところで生きるのではなく、もっと良いところで生きたいと願います。置いたお方の使命を生きるのではなく、自分の居場所を作ろうとする。一般社会では、それが悪いことではありません。むしろ、向上心があると見られるかも知れません。ところが、信仰の世界においては、人間的な思いに支配されている姿だと言えます。

わたしが行きたくないところに連れて行かれる。そのとき、わたしは抵抗してしまうでしょう。自分がキリスト者だと思っている人でも、イエスが抵抗しなかったにも関わらず、抵抗してしまう。そのとき、イエスの十字架と復活とはわたしの出来事とはならない。わたしを生かす出来事として働いていない。そうなると、わたしはキリスト者、キリストのものとして生きてはいないことになる。ペトロに言うイエスの言葉は、最終的にあなたがどこに生きているか、何を食べて生きているかが明らかになるとおっしゃっているのです。それはペトロの死を通して、明らかになることだと言うのです。ペトロが、他人に連れて行かれることを受け入れるとき、彼は神に栄光を帰している。キリスト者となる道へと、神さまによって置かれたわたしたちは、このペトロに言われたイエスの言葉を自分のこととして聞く耳を開かれているはずです。あなたの死に方を通して、神は栄光化されると、イエスはおっしゃっているのです。

イエスは、ペトロへの言葉の前に、弟子たちを食べさせています。「今とった魚を何匹か持って来なさい」と言って、「さあ、来て、朝の食事をしなさい」と言われた。弟子たちを食べさせたのは、イエスです。イエスに食べさせていただいた者として、ペトロには食べさせる使命が与えられているということです。イエスが愛してくださっているところから、イエスを愛するところへと移されているのが、キリスト者です。イエスを愛することは、小羊に食べさせることを通して、行われる。その食べ物は、イエスご自身の体と血が表している十字架と復活の出来事です。十字架と復活とが、キリスト者を育む食べ物、イエス・キリストの言葉なのです。

イエスが最後には、ペトロが言う「愛する」をアガパオーではなく友愛を意味するフィレオーに変えているのは、イエスの諦めのように解釈する人たちがいますが、それは違うでしょう。イエスを友愛する者こそが、イエスの友だからです。イエスの友である者にイエスは使命を与えて、派遣するのです。

わたしたちは、ご復活の喜びの中に生きていますが、その喜びに押し出されて、他者に仕えることへと向かうように促されているのです。それは、自分の隣人が本来の自分を生きることができるように仕えることでもあります。自分を守ろうとするところから解放されて、自分を受け入れてくださるお方、愛してくださるお方のものとして生きることが、真実に生きることであると、伝える働きです。

毎週、わたしたちが礼拝を守っているのは、自分が世話をする者として生きるためです。それは、使徒パウロが言ったように、自分の体を聖なる生けるいけにえとして神に献げるという生き方です。ペトロが神に栄光を帰する生き方を示されたように、わたしたちもまた神に栄光を帰する生き方へと導かれています。自分を誇る生き方ではなく、自分を捨てる生き方へ。他者に十字架を負わせる生き方ではなく、自分の十字架を取る生き方へ。この道を歩む者に先立って十字架を負ってくださった復活の主が、あなたと共に生きてくださいます。先立ち給う主の十字架を仰ぎながら、自分の十字架を取って進んで参りましょう。

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