2025年5月11日(復活節第4主日)
ヨハネによる福音書10章22節-30節
新しくなるということは、それまでのものが残っているならば、起こらないと、わたしたちは思います。残っているものに宿っている古い意識が消えない限り、かつての思いに流されていくからです。しかし、古いものであろうとも、新たに位置づけられていくならば、新たな思いで用いることもできるのではないかと考えて、今日の福音書に記されている「神殿奉献記念祭」が祝われていたのです。
バビロン捕囚によって破壊されたエルサレム神殿を再建したイスラエルの民でしたが、その後の歴史の中で、神殿そのものが別の神を祭ることに使われてしまったのです。その汚された神殿を新たに神ヤーウェのために献げ直したのが「神殿奉献」でした。その奉献を記念する祭がユダヤ教では「ハヌカ」、「献げる」という名前の祭として祝われるようになりました。これをギリシア語では、エンカイニアと訳しています。つまり、「新しいこと」という意味です。新たにされた神殿を意味しています。しかし、汚された神殿の建物自体は変わりません。その精神が新たにされるということですが、建物しか見ない人たちにとっては、同じ建物です。だから、新たにされたことを祝う祭を毎年祝って、人々の心に同じ建物ではないということを植え付けようとしたのでしょう。ところが、この祭をもってしても、分からない人には分からないのです。それが、イエスが言う「わたしは言ったが、あなたたちは信じない」という言葉が語っている事柄とつながることです。
人間の内なる心というものは、外側のものが残っている限り変わらないものです。変わるとすれば、神さまによって変えられた人だけです。それが「わたしの羊はわたしの声を聞き分ける。わたしは彼らを知っており、彼らはわたしに従う。」というイエスの言葉が語っていることです。イエスの羊として新たに創造された人だけがイエスの声を聞く。これは、自分で変えようとしても変えることができないことを意味しています。イエスの声を聞くように変えられるためには、自分でイエスの羊だと思うことでは変わらないのです。あくまで、神さまが聞く耳をくださるのでなければ、イエスの声を聞くことはできないのです。
神殿奉献記念祭を何度行おうとも、変わらないのと同じように、どれだけ聞こうとしても聞くことができない。聞こうとすることは、自分の力、自分の頭で考えているわけです。ですから、素直に聞くことができない。聞いているつもりにはなっている。でも、聞いてはいない。つまり、受け入れないということです。自分の気に入る言葉しか受け入れないので、実は聞いていないのです。だから、「わたしは言ったが、あなたたちは信じない」とイエスはおっしゃるのです。
しかし、聞いている人たちは、神によって耳を開かれている。真実の神の声を聞く耳は、自分では開くことができない。また、イエスも羊たちを認識していると言っていますので、相互に結ばれているということです。それを結んだのはイエスの父である神です。なぜなら、父とイエスは一つだとおっしゃっているからです。これは、人間の側からは何もできないということを語っています。
面白いことに、メシアであることを自分で明らかにするようにと、ユダヤ人たちはイエスに迫っていますが、これだけでも、イエスの羊ではないことが明らかになっています。イエスが「自分はメシアだ」と言ったとしても、彼らは信じないでしょう。反対に、「自分はメシアではない」と言えば、信じる。彼らは、自分たちが求める答えしか受け入れない。求める答えが得られるまで、何度でも聞くでしょう。
イエスは、自分はメシアだともメシアではないともおっしゃらない。イエスの羊ならば、言われなくても分かっている。イエスの声を知っている。それは、イエスの声が彼らの魂に響くということです。イエスの声は、その人の魂が知っている声だということです。はじめてイエスに出会っても、親しみを感じる声だと分かる。わたしたちが初めて会った人に対して、初めての気がしない、何だか親しみを感じるということがあります。そのような人は、親しみを感じるわたしとどこか似通っているものがあるのでしょう。同じように、イエスと羊とはどこか似通っている。何かしら、惹きつけられる。これは、人間が作り出すことのできないものです。それを与えるお方がいる。
与えられるということは、与えられるものはその人のものではありません。与えたお方のものです。ですから、イエスの羊であるために、人間がイエスの羊になろうとしてもなることはできません。父なる神が、その人の耳を開くことがなければ、あるいは聞く耳を与えることがなければ、イエスの羊として生きることはできないのです。ということは、イエスの羊になるために、わたしたち人間からできることは何もないということになります。わたしたち人間がイエスの羊であることを受け入れるだけなのです。それは、先ほど言いましたように、何かイエスに親近感を感じるとか、このお方ならわたしの気持ちを分かってくださると感じる人は、もともとイエスの羊の要素を持っているのです。それでも、イエスに惹かれる人が、その気持ちを捨てることもできます。自分の思いに従って、イエスを判断しようとするならば、イエスの羊である要素を捨ててしまうのです。
「聞く」という事柄は、意識して「聞く」ということですが、その意識を促されるのは結ばれている存在だけです。結ばれていない存在が、「聞く」ことを自分で意識しようとしても長続きしません。自分で意識する人は、しばらくは続いても、今までの聞き慣れた声の方にすぐ戻ってしまう。聞き慣れた声は、この世の声です。ですから、自分で意識して「聞く」ことではイエスの羊ではないのです。父なる神に意識を起こされて、何故か知らないけれど、イエスの声は心地よいと素直に受け入れる人は、イエスの羊でしょう。その人の魂には、まっすぐにイエスの声が入って来る。これを可能にしているのは、父なる神なのです。
こう考えてみると、キリスト者という存在は神によって聞く耳を与えられて、キリストと結び合わされた存在だということになります。これを「選び」と言います。イエスはこのヨハネによる福音書の15章16節でこうおっしゃっています。「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。」と。キリスト者は、イエスが選んでくださった存在なのです。そのイエスの選びは、父なる神と一つであるイエスの選びですので、神の選びということになります。それゆえに、イエスは6章44節でこうもおっしゃっています。「わたしをお遣わしになった父が引き寄せてくださらなければ、だれもわたしのもとへ来ることはできない。わたしはその人を終わりの日に復活させる。」と。そこには、人間の側からの行動は何一つないのです。あくまで、選びを受け取ることだけが人間にできることです。この受け取ることが、「聞く」と言われていることでもあります。
イエスの声を聞く羊は、イエスのすべてを受け取る羊。受け取ったイエスの声、イエスの言葉が、その人をイエスと一つにしてくださる。それゆえに、6章では「わたしはその人を終わりの日に復活させる。」と言われていますし、今日の箇所では「わたしは彼らに永遠の命を与える。」と言われているのです。つまり、復活する者、永遠のいのちを持っている者とは、イエスの羊であり、イエスの声を素直に受け取る存在なのです。素直にイエスの言葉を受け入れ、「アーメン」と従う人がキリスト者です。キリスト者はイエスを判断することはない。イエスがメシアであるかどうかを判断しようとする人たちはイエスの羊ではないのです。
あなたが、イエスの言葉を素直に受け入れ、イエスの声に親しみを感じるのであれば、あなたはイエスの羊です。イエスの言葉があなたを育ててくださる。イエスの声を聞く者は、決して滅びることなく、永遠のいのちを与えられて、復活する者。その人は決して滅びない。その人は根底から新しくされている存在。新しく創造された存在。キリストと共に死んで、共に復活させられた人。そのようになる者としてわたしたちをイエスに結びつけてくださった神に感謝して、与えられた新しいいのちを喜んで生きていきましょう。