「闇に輝く光」

2025年5月18日(復活節第5主日)
ヨハネによる福音書13章31節-35節

光というものは暗闇で必要なものです。聖書が語る「栄光」という言葉は、輝きであり、光を意味しています。今日の福音書の日課では、イエスは「今や、人の子は栄光を受けた」と語り始めるのですが、この「今」は、この前の30節にあるユダが夜の闇の中へと出ていった「今」です。夜の闇の中に出ていったユダのことを思いながら、イエスは「今や、人の子は栄光を受けた」と言うのです。闇の中に出て行かざるを得ないユダに光が必要だということ。そして、その光とは闇に思える栄光、十字架という光なのです。

ヨハネによる福音書1章5節には「光は暗闇の中で輝いている」と語られています。旧約聖書の創世記1章2節で最初にあったのは「闇」です。神はその「闇」の中で言う、「光あれ」と。「こうして、光があった。」と続いています。神は光を創造した。闇に必要なものとして「光」を創造した。「光」は、すべてのものがあからさまに生きるために必要なものだったからです。また、他者と周りの環境などを認識するためにも「光」は必要だったのです。

しかし、闇の中に出ていくユダは、光から逃げていく。この悲しみの中で、イエスは言うのです。「今や、人の子は栄光を受けた」と。ユダが闇の中に入って行った「今」、光が必要だとイエスは言う。光を拒否するユダの生き方にこそ、「光」が必要だとおっしゃっているようです。しかし、ユダは受け入れない。そして、夜の闇の中へ出て行った。

この悲しみの中で、神が栄光という「光」を輝かせてくださると、イエスは言う。どうしても必要な「光」が神によって生じなければならない。イエスの十字架の死が栄光の「光」として輝くことが必然なのだと、イエスはおっしゃっているのです。それなのに、分からない人には分からない。そこに、人間の悲しさがある。そして、神の悲しみも。

わたしたちは、分かろうとして分かるわけではありません。分かろうとすることを止めなければ、分からせてくださるお方の働きを受け入れることができないのです。もし、わたしが分かろうとして分かったとするならば、わたしの分かろうとする働きがわたしを分かる者にすると考えていることになります。しかし、分かろうとする必要があると、わたしが分かっている時点で、わたしはわたしの力では分からないと分かっているのです。また、分かる必要があると認めている時点で、わたしは分かろうとしていなかったと分かっているのです。それは、目覚めのようなものです。ですから、分かろうとしていなかったということに目覚めた時点で、すべては明らかになるのです。

しかし、わたしたちは自分で目覚めることはできません。目覚めを与えるのは神です。自分でこの時間に目覚めようと思って目覚めることができると、わたしたちは思っています。しかし、目覚めは自分の力では起こらないのです。外部の力が必要なのです。目覚めるときは神が決めておられる。それはまた、「分かる人には分かる」、「分からない人には分からない」ということです。この二種類の人間を分けているのは、神です。だから、イエスはユダが分からない人間であることを悲しみ、闇の中に出ていくことを憐れんで、「栄光を受けた」と言うのです。つまり、神の栄光である十字架を引き受けるという「光」が必要な時が「今」だとおっしゃったのです。その「今」は闇なのです。そして、「光」であるイエスの愛を弟子たち一人ひとりがうちに持っていることを願ったのです。それが「互いを愛する」という掟だと、イエスはおっしゃっています。

わたしたちは、いつも思います。互いを愛さなければならないと。イエスがおっしゃったから、互いを愛するべきなのだと考える。そのとき、わたしたちは、「そうだ。あの人はわたしを愛してくれない」と考えています。愛せない自分のことは考えていません。いや、考えているかもしれませんが、その考えを見ないようにしています。それが普通の人間です。普通の人間は、自分から見ようとはしないのです。見せられなければ、見ないのです。それゆえに、イエスは弟子たちに言う。「互いを愛しなさい」と。

わたしたちは、自分を愛しています。この愛は、本当に自分を愛しているのではありませんが、愛していると思い込んでいます。実は、自分の良いところだけ、自分の愛せる自分だけを愛しているのです。自分がいやな自分、または人から批判されるかもしれない自分は愛してはいません。隠しています。それが、ユダなのです。それが人間の闇です。そこに、光が、神の光が必要なのだとイエスはおっしゃるのです。

周りから褒められる自分、周りから認められる自分でなければ、自分さえも愛することができない。それが普通の人間です。それが闇に隠れる人間です。周りには、良い人間だと見せようとする普通の人間です。本当の自分を隠している人間です。そのような人間に光が必要なのだとイエスはおっしゃるのです。これは、わたしたち一人ひとりに語っておられるイエスの言葉、神のロゴスです。それが、互いを愛しなさいとおっしゃるイエスの心なのです。

わたしたちは、イエスがおっしゃらなければ互いを愛することなどしないのです。互いを愛するとは、互いに本当の自分を見せることだからです。本当の自分を見せても、相手は自分を拒否しないというところでこそ、互いを愛することが生じるのです。見せかけの自分同士で愛している振りをしても、互いに騙し合っているだけです。それを、互いを愛するとは言わないのです。

この13章は、洗足の出来事から始まっています。イエスが、一人ひとりの汚れた足を洗ってくださったあとで、互いに足を洗い合いなさいとおっしゃるのです。そして、ユダが闇の中に出て行ったあとで、互いを愛しなさいとおっしゃるのです。汚れた自分をさらし合うこと、洗い合うこと、それが互いを愛することだとイエスはおっしゃっておられる。

互いを愛するとは、本当の自分を愛するところから生まれることです。これがなければ、良い格好を見せ合うだけの嘘の関係、互いに騙し合う関係に陥ってしまう。汚れた自分を見せ合うだけではなく、汚れた互いを受け入れ合う。それが可能になるのは、イエスの十字架と復活によってわたしたちに与えられる恵みなのです。ここを通らなければ、互いを愛することには至らないのです。

「仲良しの仲間」の振りをしても、互いを愛することにはならない。自分が愛せる自分を見せても、互いを愛することには至らない。自分に優しい相手を受け入れても、互いを愛することには至らない。汚れた、ダメな自分を愛していない人は、互いを愛することには至らないのです。

しかし、神は、そのような闇に隠れている一人ひとりをご自分の栄光で照らしてくださる。なぜなら、神は闇に隠れている人間を愛しているからです。闇に隠れてもなお、人間を愛しているからです。神を拒否しても、神はその人を愛しているのです。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」と記されている通りです。イエスがユダを最後まで愛したように、拒否する人間、闇に隠れるこの世を神は愛しているのです。だからこそ、イエスを十字架の死に引き渡された。イエスもまた、十字架の死を引き受けられた。ここに、父とイエスとの一なる在り方が示されています。

闇に陥っているこの世を愛された神は、独り子をも惜しまずに、世に与えられた。それは、イエスを信じる者が滅びることなく、永遠のいのちを持つためだった。イエスがわたしたちに与えてくださる恵みは、わたしたち闇に隠れる存在が恐れることなく、神の御前に立つことができるようにしてくださる憐れみの神の御手なのです。

今日共にいただく聖餐は、一人ひとりの前に差し出されている神の御手。感謝して、握り返し、神のものとして生きていきましょう。あなたは神のもの。罪深くとも神のもの。神に愛されているダメな自分を愛して、他者の汚れた部分も愛する者としてくださる神の愛を受け入れましょう。あなたの汚れをご自分のものとしてくたさり、ご自分の聖さをわたしたちに与えてくださるイエスに信頼して。

Comments are closed.