2025年5月25日(復活節第6主日)
ヨハネによる福音書14章23節-29節
わたしたちは、何かを思い出したというとき、過去の記憶を思い出すだけだと思っています。過去ですから、現在には何もできないと思うものです。でも、思い出したとき、その思い出は今のわたしに働きかけるものです。今日の福音書では、イエスはこうおっしゃっています。聖霊は「わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる」と。聖霊とは「思い起こさせる霊」だというわけです。思い起こすのですから、忘れていたということです。忘れていたということは、すでに自分たちがそこに生きていたのに見失っていたのです。この忘れていたものを思い起こすことで、すでにあったものが現在の自分のものとして再び生きるようになる。これが聖書が語っている「思い起こす」ということです。しかし、どうして忘れていたのでしょうか。
わたしたちは何かを与えられた当初は喜んでその何かを大切にしています。ところが、時間が経つに連れて、その何かは「あって当然のもの」となって行きますので、忘れていくのです。わたしたちが忘れているのではあっても、その何かはそこに存在して働き続けています。それが働き続けていることが当たり前だと思っている人にとっては、あってもないような感じになるわけです。しかし、それがまったく働かなくなったとき、いかに大切な働きをしてくれていたかが分かる。
とは言っても、ここでイエスがおっしゃるように、自分で「思い起こす」ことができないからこそ、聖なる霊が働いて「思い起こさせてくださる」必要があるというわけです。わたしたちが礼拝の初めに「父と子と聖霊の御名によって。アーメン。」という言葉から始めるのは、そのためです。父と子と聖霊とが働いて、わたしたちが見失っているものを思い起こさせ、今のわたしに分からせてくださいと祈って、礼拝を始めるのです。
わたしたちは失ったと思っているときには、探すでしょう。今まで働き続けていた働きがなくなるならば気がつくでしょう。しかし、働き続けているままですから、気づきもしないのです。探すこともない。探していないということは、それが無くなったと感じてはいないからです。あったことも、今あることも感じてはいないのです。父なる神のお働きは無くなりませんから、無くなったと感じさせることなく働き続けてくださっている。父なる神のお働きを受けているのに、人間は、自分が働いているかのように勘違いして生きている。これが、わたしたち人間が陥った原罪によって曇らされている人間の感覚なのです。ですから、わたしたちの感覚はわたしを騙すと言えます。自分の感覚に頼っていると、自分に騙されるのです。
騙されていることに気付くには、誰かが指摘してくれる必要があります。しかし、その人を信用していなければ、聞く耳は開かれません。どれだけ伝えたとしても、聞く耳がなければ聞かないのが人間です。信用できる人とできない人を分けるのはわたしの感覚ですから、騙されるでしょうね。この人は信用できると思わせる手法も手が込んでいます。その人に騙されるとすれば、わたしの外からの働きがすべて正しいところへ導くとは言えません。ですから、わたしではないお方が、わたしに教えてくださる必要があるとは言っても、わたしが自分で判断する「この人は信用できる」という判断では、客観的に見ることができないということです。これがわたしたちの自我というものが間違う原因です。
そのようなわたしたちが自分の感覚や判断に騙されることなく聞くことができるとすれば、感覚を超えた何事かが起こる必要があります。それが神の啓示というものです。啓示というものは、今まで思ってもみなかったことを思わされることです。自分の思いを「それで良い」と言ってくれるのは啓示ではありません。「本当にそれで良いのか」と自分の視点を変えられるような思いが起こされるとき、啓示を受けたと言えます。
その啓示を伝えるのが聖霊です。聖霊は、神の霊ですから、神の意志を伝えてくれるのです。それでも、ヨハネによる福音書で述べられているように、その聖霊の啓示、つまりイエスの言葉を聞かせる聖霊の働きさえも、人間は自分の判断によって捨て去ることも起こります。ヨハネ福音書に出てくるユダヤ人たちは、イエスの言葉を聞きません。語っているのに聞きません。どうしてかと言えば、その人たちが自分の人間としての感覚に頼っているからだと言えますが、ではイエスの許に来る人たちはどうして人間としての感覚に頼らないのでしょうか。そこが不思議なところです。
イエスが別の箇所でおっしゃるように、「父が引き寄せてくださる」人は、最初からイエスの言葉を聞く。イエスの声を聞く。その人とイエスとが父によって最初から結ばれているということです。そのような人に自分からなろうとしてもなることができない。これを「選び」と言います。選ばれているから、最初からイエスの羊ですし、イエスの声を知っているのです。ですから、最初からあるものを「思い起こさせる」聖霊の働きを素直に受け入れる。その人は、何故か聞く、何故か見る。
イエスは、そのような人に対して「わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える」とおっしゃっています。この「残す」と訳されている言葉は「手放す」という言葉です。「手放す」ということは、イエスが自分で持っていることを止めるということです。イエスの平和は、神さまとの間にある平和ですから、手放したイエスは平和ではなくなります。ところが、イエスは「わたしが父のもとに行く」とおっしゃっていますので、イエスは父の許に行って、父との関係を自分で持っている必要がなくなるということです。父が持っていてくださるので、イエスは弟子たちに神さまとの間の平和を手放して、与えるとおっしゃるのです。
ということは、この平和を与えられた弟子たちは、神さまに信頼していることができますから、神さまの言葉、イエスの言葉を聞くことができるということです。この父とイエスとの間の平和を与えられた存在は、父とイエスとを信頼しています。これを信仰と言うのです。このお方は、嘘をつかない。このお方は信頼できるということを、その人の魂が捉えている。それで、神の言葉、イエスの言葉を聞く耳が開かれている。わたしたちの耳を開いて語り掛けるのが聖霊です。
イエスがおっしゃるように「父はわたしよりも偉大な方」なのです。イエスよりも偉大というのは、この世界すべてを支配しているという意味です。そのお方の許に行くイエスもまた、この世界を支配しておられる。その父とイエスに愛されている存在は、この世の感覚に騙されることなく、隠れることのない真理を生きることができる。「わたしを愛する人は、わたしの言葉を守る。わたしの父はその人を愛され、父とわたしとはその人のところに行き、一緒に住む。」とイエスがおっしゃるように、イエスを愛する人は、イエスの羊であり、イエスの声を聞き、イエスの言葉を聞くので、守ることができるということです。もちろん、その人が守るとは言っても、その人の力で守るのではないのです。神が守らせてくださるのです。その人がイエスを愛するのも、父とイエスとがその人を愛してくださった愛を受け取っているからです。父とイエスとのその人に対する愛が、父とイエスとを愛するようにしてくださる。
ところで、何かを受け取るために父とイエスを愛するとすれば、それは受け取ろうとしている何かを愛しているのであって、何かを与えるお方である父とイエスとを愛しているわけではありません。自分に利益になるものを愛しているのであって、利益にならないものは愛しません。そのような自分の感覚から離れて、ただ受け取る人がイエスを愛する人であり、イエスを信頼する人なのです。この人がキリスト者です。
自分の利益にならないとしても、自分にとって苦難であろうとも、イエスを愛する人はイエスの言葉を聞いて、イエスに従って行きます。その人は、イエスを愛しているのであって、不利益であろうともイエスが与え給うものとして受け入れるのです。このように生きる人が、イエスの羊であり、イエスの言葉を聞いて、守る人なのです。
そのとき、わたしたちは「互いを愛する」というイエスの言葉を生きることができるでしょう。「互いを愛する」という言葉を聞いて、「あの人はわたしを愛してくれないから、愛せない」と考えるのが普通の人間です。しかし、「イエスが神に背いたわたしを愛して、ご自身を献げてくださったのだから、わたしを愛してくれないあの人もイエスに愛されている存在なのだ」と聞く耳を開かれるならば、「互いを愛する」ということが、わたしの感覚を超えた神の働きとして起こるということです。
わたしたちの感情としての愛ではなく、神の愛に基づいて促される愛を生きる。わたしたちが自分の感覚を手放して、イエスが与えてくださる平和を受け取るとき、「互いを愛する」ことがわたしたちの間に生まれてくる。神との間に平和をいただいた者として、イエスの言葉に従って、生きていきましょう。