2025年6月1日(主の昇天主日)
ルカによる福音書24章44節-53節
「高い所からの力に覆われるまでは、都にとどまっていなさい。」とイエスは言います。「高い所からの力」というのは聖霊のことです。聖霊の力に覆われるということは、弟子たちの力で出て行くのではないということです。このイエスの約束の言葉を聞いて、弟子たちは「大喜びでエルサレムに帰り、絶えず神殿の境内にいて、神をほめたたえていた。」と記されています。弟子たちは大喜びしたと言うのです。それは、イエスの約束の言葉があったからです。普通ならば、イエスが自分たちのところを離れて、天に行ってしまったのですから、心細くなるでしょう。しかし、イエスの言葉が与えられたので、弟子たちは大喜びしたのです。
わたしたちが喜ぶという場合は、目の前に何かが起こって、自分たちにとって良いことが見える形で現れたときに喜ぶものです。「やったー」と、喜びます。それがない場合、誰かが約束をしてくれても、それが本当にそうなるかどうか分かりませんから、ちょっと不安、ちょっとうれしいという二つの気持ちがわたしたちのうちに起こります。一応、約束してくれたから信じようと思うのですが、時間が経つに連れて、「大丈夫かな」と思い始めます。そして、あまりに時間がかかると、「本当に大丈夫かなあ」となっていきます。一方、弟子たちは「絶えず神殿の境内にいて、神をほめたたえていた。」のです。ここには、イエスの約束の言葉への消えることのない信頼があります。この信頼を信仰と呼びます。しかも、「約束の言葉」への信頼です。言葉を信頼すること、それが信仰です。
旧約聖書から連綿と続いている信仰は、神の言葉への信仰です。神ヤーウェは、言葉を与える神です。目に見える何かを与えるのではなく、目に見えない言葉を与えることによって、言葉を受け取った一人ひとりのうちに神の力が働くのです。そのような働きをするのが、聖なる霊です。聖なる霊は神の言葉と共に働いているのです。しかし、弟子たちには未だ聖なる霊が降っていなかった。それなのに、イエスの言葉に信頼していることができるということはどういうことでしょうか。
聖なる霊は、イエスの地上での働きを継続する霊なのです。45節にありますように、「聖書を悟らせるために彼らの心の目を開いて」というイエスの働きを聖なる霊が継続する。イエスの言葉と神の言葉と共に働いて、わたしたちを信仰へと導く。この信仰を起こすのは、神の言葉であり、イエスの言葉です。旧約聖書から連綿と続いている言葉による神の働きを信頼して生きることができるのは、言葉と共に働く神の霊があるからです。
そうであれば、聖霊降臨は必要ないのではないかと思えてきます。確かに、聖霊降臨がなくとも、神の言葉を素直に受け入れるならば、神の言葉が働いて、わたしを信仰へと導いてくださる。しかし、わたしたちは、言葉をすぐに忘れます。弟子たちも、イエスの言葉をこれまでも何度も聞いてきたのです。しかし、復活後のイエスを認めるために、イエスご自身が弟子たちにご自身を現さなければならなかった。ところが、弟子たち以降のキリスト者には、イエスご自身が現れることはありません。ただ、聖霊が一人ひとりに働いて、見えないお方を信頼することへと導いてきたのです。そのために、イエスは弟子たちの目の前から見えなくなる。それは、弟子たちが自分の目という感覚によって、イエスを確認するのではなく、信仰によってイエスを確認するようにされるためです。
聖霊が降ることによって起こるのは、わたしの肉体が見たり、触れたりして確認していたことを、見なくても、触れなくても、確認できるようになることです。弟子たちが説得しなくても、聖霊の働きによって信じる者が起こされるのです。そのような聖霊の働きが始まるまで、都に留まっていなさいとイエスはおっしゃった。この留まるということは、最後に記されているように、「絶えず神殿の境内にいて、神をほめたたえていた。」ということです。つまり、神を礼拝していたということです。わたしたちが毎週礼拝を守っているのは、この弟子たちの姿に従っていることなのです。
わたしたちの礼拝は、神の言葉を聞くことです。マルティン・ルターが礼拝式を新しくしたときに、それまでの礼拝式が「神の言葉が沈黙している」ような礼拝式だったと言っています。ルターが言う「神の言葉」というのは聖書の言葉です。当時の礼拝式は、聖書の言葉そのものが語られることがなかったのです。ルターは礼拝式の中で「みことばが沈黙しない」ように、聖書の言葉をそのままに使いました。また、ルターが導入した会衆が歌う讃美歌も、聖書の言葉から作られました。ルターは、神の言葉が一人ひとりをキリスト者にすると信じて、礼拝改革を行ったのです。エルサレムに留まって、神を誉め称えていた弟子たちが礼拝していたと言ったのは、このような意味です。
聖霊降臨はまだ起こっていませんが、聖霊は働いていました。聖霊降臨は、それまで弟子たちのうちに働いて、聖書を理解させていた聖霊が、弟子たちが受け取った福音を宣べ伝えるように動かすときが来たということです。イエスが今日の福音書でおっしゃっている「高い所からの力に覆われる」ということは、弟子たちが自分の力で、自分の思いで、宣べ伝えるのではないということです。聖霊が働いて、宣べ伝えるように弟子たちを動かすことが起こる。聖霊降臨は、自分の力が無くなるときに起こるとも言えます。
わたしたちは自分の力がある間は、自分の思いに従った計画を立てます。そのようなとき、イエスがおっしゃる「罪の赦しを得させる悔い改め」を宣べ伝えることも、自分が赦せる人にだけ伝えるでしょう。いえ、赦せるというよりも、赦す必要がないような自分の仲間だけに伝える。このようなとき、わたしたちには自分の思いで動いています。イエスがおっしゃるように「あらゆる国の人々に宣べ伝えられる」ということは起こりません。仲間だけ、自分に良くしてくれる人だけ、自分が認める人だけに宣べ伝える。これでは宣べ伝えることにはなりません。また、宣べ伝える人が、まず「罪の赦し」を受け取っていなければなりません。だからこそ、イエスは弟子たちを祝福しながら、天に上げられたのです。
「祝福」という言葉は、「誉め称える」という言葉と同じ言葉です。神さまの祝福を受けた人が神さまを誉め称える。神さまの祝福は受け取った人を、神に向かうようにしてくれるのです。神に向かうということは、神さまがすべてを支配しておられると信頼することです。神を誉め称えることは、神を信じる信仰の行為なのです。そうであれば、弟子たちはイエスの約束の言葉を受け取って、信仰を起こされて、神殿の境内にいて、神を信じて、誉め称えていたのです。しかも「絶えず」と言われていますので、途切れることなく、いつでも神を誉め称えていたのです。この途切れることなく神を誉め称えることが信仰を与えられた者の生き方なのです。
ということは、常に「罪の赦し」を受け取ることが信仰の姿です。「罪の赦し」を受け取るということは、自分の罪を自覚することです。「罪の赦し」を宣べ伝える人は、常に自分の罪を自覚して、神を誉め称えているということになります。自分の罪を自覚している人が、罪の赦しを宣べ伝えることができる。聖霊は、そのためにわたしのところへ派遣される。だとすれば、「罪の赦し」は、あくまで罪を自覚する人しか受け取ることはないということです。
わたしたちが聖餐式において受け取る「あなたの罪の赦しのために流されるキリストの血」を正しく受け取るために、礼拝式のはじめに「罪の告白」が行われているのです。罪を自覚して、罪の赦しを受け取る。この在り方こそが、弟子たちが神を誉め称えていた在り方なのです。
十字架の死を通して、あなたの罪を赦してくださったイエス・キリストが、ご自身の体と血を与えてくださって、神を誉め称える者として、あなたを新たにしてくださいます。わたしたちが、救われて生きていくために、与えられるキリストご自身を、イエスの言葉に従って受け取りましょう。イエスの言葉が、あなたをイエスに従う者としてくださいます。