「ひとつのわたし」

2025年6月8日(聖霊降臨日)
ヨハネによる福音書14章8節-17節、25節-27節

「御父をお示しください」とフィリポがイエスに言っています。この言葉に対して、「こんなに長い間一緒にいるのに、わたしが分かっていないのか。」とイエスは答えています。長い間一緒にいても分からない。普通の人間同士であっても、分からないものです。その人の内側がどのようであるかは誰も分かりません。わたしたちが分かるのは、その人の外側だけです。外側だけを見て、分かったと思う。これが普通の感覚です。

わたしたちには内側と外側があります。本来は、内なる魂が外に現れて、外側の行いをしているものです。イエスの場合は、内側と外側は同じです。イエスは何も隠していないからです。ところが、わたしたち人間は、内側と外側が一致していません。いえ、内側で考えていることをそのままに外に現すことはないのです。本当のことを外に現したなら、人から批判されると思い、都合が悪いものは隠しています。隠しているということは、外側で嘘をついているということです。イエスの外側は内側と一つですから、嘘はありません。だから、イエスは言うのです。「わたしがあなたがたに言う言葉は、自分から話しているのではない。わたしの内におられる父が、その業を行っておられるのである。」と。つまり、イエスの内側は父と一つであるから、一つである父とイエスが外側に現れているイエスだと言うのです。だからこそ、「わたしを見た者は、父を見たのだ。」ともおっしゃったのです。そして、そのことを信じなさいとおっしゃる。

「信じる」という言葉は、ギリシア語でも、ヘブライ語でも、信じるもののうちに自らを投げ入れるという意味です。自らを投げ入れて、入った存在は、イエスと父のうちに生きることになります。イエスと父のうちに入った人は、その人の内でイエスと父が働くように生きることになるのです。これが、信じるという出来事です。

信じる人のうちにイエスと父が働いているから、信じる。信じるから、イエスと父が、その人の内で働く。これはどちらが先かということではありません。わたしたちは、どうしても原因と結果という順序で考えてしまいます。原因があって、結果があると思うのです。それで、結果を得るために、何をすれば良いのかと考えてしまいます。これは、わたしが何かをすれば、結果が得られるという考え方です。これが間違いなのです。

イエスは、ご自身のうちで働いておられる神の御業があって、言葉を語るとおっしゃっています。イエスのうちで父が働くために、イエスが何かをしているわけではありません。父の働きに従順に従うことで、イエスは父の働きによって語っておられる。ということは、イエスの内なるものは父そのものだということです。そして、父が原因として働いておられるということです。イエスの言葉の原因は、イエスではなく父であると、イエスはおっしゃっているのです。

わたしたちがこの世に生まれるということは、ただ生まれることです。わたしが何かをしたから、この世に生まれたわけではありません。わたしは何故か知らないけれど、生まれたのです。わたしが生まれた原因は父なる神です。わたしは父なる神の働きとして、この世に生まれただけ。そうであれば、父なる神の働きは、わたしには分かりません。分からないのに、分かろうとしても、わたしは神さまではありませんから、分かるはずはないのです。

わたしが分かろうとするとき、わたしが原因を見つけて、原因を行う者として生きたいと願っているわけです。そうすれば、わたしが思うことは何でも実現するだろうと考えるのです。そのような弟子たち、わたしたちに向かって、イエスはこうおっしゃっています。「わたしの名によって願うことは、何でもかなえてあげよう。」と。これはイエスさまに願えば、自分の思いが実現するということだと、わたしたちは考えます。しかし、イエスは、わたしたち人間は自分ではかなえることができないということを教えてくださっているのです。「イエスの名によって願う」ということは、わたしの名によって願うことではないということですが、それはイエスを信頼して、イエスに委ねるということです。わたしが実現したいということをイエスに委ねるということは、わたしの力で実現するのではなく、イエスの名が実現することに委ねるということです。

イエスが、十字架の前に父に祈った大祭司の祈りも、すべてを父に委ねた祈りでした。この祈りは、17章に記されていますが、他の福音書ではゲッセマネの祈りとして残されています。そこでは、すべてが父のご意志に従ってなることを受け入れて、父のご意志に委ねたイエスがおられる。十字架という苦しみも、父の意志として受け入れ、従うイエスがおられる。ヨハネ福音書の大祭司の祈りでもイエスはこう祈っています。「彼らのために、わたしは自分自身をささげます。彼らも、真理によってささげられた者となるためです。」と。神にすべてを献げるイエスがおられて、イエスを信じる者たちもまた隠れなく生きる真理に自分を献げる生き方ができるということです。

この「真理」というのは隠れなく生きることですから、内側も外側も変わることのないわたしを生きるということです。内側にある自分の本心を隠して、外側では良い人ぶっているという人は、誰かに自分を受け入れて欲しいわけです。それは、この世の目に見える外側の世界が大事だということです。しかし、「真理」によって神さまに自分を献げるキリスト者は、目に見えるところで人に受け入れられることを求めることはありません。神の前に、罪深い自分を献げて、神の意志に従うように生きる。それは、自分に起こってくることはすべて神の意志として受け入れるということです。すべての原因は神さまだけである、ということを信じて生きる。だから、自分が原因を作り出して、自分に都合の良い結果を獲得しようとはしないのです。このような生き方へと導くのが聖なる霊の働きです。

わたしは塵に過ぎないのです。小さく取るに足りない存在です。わたしの世界は小さな世界。もっと大きな世界、もっと偉大な世界に生かされているのに、わたしの小さな世界を守ることにこだわって、偉大な世界を追い出している。これがわたしです。このようなわたしたちにイエスはこうおっしゃる。「わたしを信じる者は、わたしが行う業を行い、また、もっと大きな業を行うようになる。」と。もっと大きな業というのが、神の偉大な世界に生きることです。そのためには、イエスを信じることで充分だとおっしゃっているのです。この世界へとわたしたちを導くのが、「平和」である聖霊です。

この世では、自分と自分の世界を守るために、争いを起こします。誰かを攻撃していながら、自分は被害者だと言って、攻撃を正当化します。争い合う者同士が、同じように被害者だと主張します。加害者であることを認めたら、相手を攻撃する口実がなくなるからです。わたしたちは、加害者であり、被害者です。互いに攻撃し合って、終わりのない戦争に陥っている。この原因は、一人ひとりがうちに宿している原罪です。誰も、わたしの世界に入れないようにする。このわたしの世界を失えば、わたしがなくなると思わせる原罪。ここから解放してくださるために、イエスは弁護者である聖霊、平和である聖霊を送ってくださる。

聖霊降臨日の今日、わたしたちはイエスと父とが送ってくださった聖霊を受ける。この聖霊は、わたしたちを励ましてくださるお方です。この世の弁護者は、いつまでも「あなたは被害者だ」と代わりに言ってくれる人です。天からの弁護者は、あなたが本来の自分を生きることができるように励ましてくださるお方です。自分を捨てても、自分を失うことはないと励ましてくださる。外側の自分を捨てて、本来の自分を生きなさいと励ましてくださる。十字架の上で、すべてを失ったかに思えるイエスが神の力によって生きておられるように、神に造られた者としてのあなたに生きる力を与えてくださる。聖霊によって、内も外もないひとつのわたしを生きることができる。本当のあなたを生きることができる。ペンテコステおめでとうございます。

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