「憐れみを行う者」

2025年7月13日(聖霊降臨後第5主日)
ルカによる福音書10章25節-37節

今⽇の福⾳書の始めには、律法学者がイエスを試そうとしたと記されています。イエスを試そうとして、対話を始めた律法学者は試しに成功したのでしょうか。彼はどうなったのでしょうか。律法学者のその後については何も記されていません。ということは、このイエスの試しの結果は、わたしたち聖書を読んでいる者に問いかけているということです。そして、本当の⾃分を⽣きるということはどういうことであるかを、イエスは語っておられると⾔えます。それは、神に造られたわたしを⽣きるということです。もちろん、わたしたちは神に造られています。しかし、わたしたちの⼈⽣のときどきに造られているわたしがいるのです。それが、律法学者が最後にイエスに答える⾔葉に現れています。

「その⼈を助けた⼈です」という 37 節の⾔葉です。原⽂ではこうなります。「その⼈と共に、憐れみを⾏った者」、あるいは「その⼈と共に、憐れみを作った者」 です。「憐れみ」というのは上から与えるものではなくて、共に⾏うもの、作るものだと、律法学者は答えています。これが、イエスが求めた答えでしょう。だからこそ、「⾏って、あなたも同じようにしなさい。」とおっしゃった。

憐れみという⾔葉は、お腹で感じるものです。「可哀想」ということではなく、「同情」でもなく、「共感」のようですが、体でその⼈の痛みを感じ取ること、同じところに⽴つことなのです。それが憐れみだとすれば、憐れみを作るのは、助ける⼈だけではなく、助けられる⼈も協⼒して、憐れみを作り、憐れみを⾏うのです。「憐れみ」という⾔葉は、特に旧約聖書によく出て来ますが、もともとは⺟親が⼦を宿す胎を表す⾔葉です。胎に宿った胎児は、⺟と⼀体であるかのように共に⽣きている。そこから神の憐れみもまた、二人の人間と神が共に作るものだと考えられているわけです。

レビ⼈も祭司も強盗に襲われた⼈のそばには⾏かなかった。倒れている⼈と共に、憐れみを作ることがなかった。倒れているその⼈を⾒ても、道の向こう側を通るだけで、通り過ぎてしまった。⼀⽅、旅していた⼈はそばに寄って、その⼈を介抱して、宿屋まで連れて⾏った。その⼈のその後にも責任を持って関わっている。これは同情などというものではなくて、⽬の前の⼈に⾃分を⾒たと⾔える対応だと思えます。レビ⼈や祭司と同じように通り過ぎる⼈が⼤半なのに、どうしてそのような⾏動をしたのか。それぞれの感性の違いなのでしょうか。

感性の違いであるならば、このサマリア⼈は感性の鋭い⼈だったと、わたしたちは思います。ところが、このサマリア⼈が他の出来事に出会ったときにも⾃分のことのように感じるかどうかは分かりません。ただ、このときには同じ⼈間としての痛みを感じたということです。それが、イエスが⾔う「隣⼈となった⼈」です。それは、「隣⼈として⽣じた⼈」で、神さまによって隣⼈として創造された⼈なのです。神さまがこの⼈を、このとき、この場所へ遣わした。そして、強盗に襲われた⼈に出会わせた。

イエスがこのたとえを話す前に、律法学者がイエスに問うたのは、⾃分が永遠のいのちを相続するためには、「何を⾏えば良いのか」ということでした。イエスは「これを⾏いなさい」とはおっしゃらず、反対に「律法には何と書いてあるか。あなたはそれをどう読んでいるか」と聞いています。彼の答えは、神を愛することと隣⼈を⾃分⾃⾝のように愛することでした。これはあくまで彼が律法学者として理解している神のご意志です。ですから、「正しい答えだ。それを実⾏しなさい。そうすれば命が得られる。」とイエスはおっしゃった。原文では、「正しくあなたは答えた。このことを、あなたは行いなさい。(あるいは、作りなさい。)そして、あなたは生きるであろう。」という意味です。

彼は、そう⾔われても、なお隣⼈を対象と考えて、イエスに再び聞くのです。「では、わたしの隣⼈と はだれですか」と。ここに⾄って、イエスはたとえを話したということです。隣⼈を対象として限定しようとするこの⼈に対して、たとえの最後にまたイエスは問うています。「だれが追いはぎに襲われた⼈の隣⼈になったと思うか」です。この問いかけに「その⼈を助けた⼈」、つまり「その⼈と共に、憐れみを作った者」と答えた律法学者に、またイエスは⾔うのです。「⾏って、あなたも同じようにしなさい。」と。原⽂では、「⾏って、あなたも同じように⾏いなさい」、あるいは「あなたも同じように作りなさい。」です。イエスは⾏うことを命じています。作ることを命じています。それは、この⼈が理解した通りに⽣きなさいということです。

誰かと共に、憐れみを作るということは、助ける⼈、助けられる⼈という別々のことではなく、⼀緒に憐れみを作るということだと律法学者は思わず答えたのです。ですから、憐れみとは倫理ではないのです。憐れみは、倫理として⾏うことではなく、その場、そのときに、遣わされた者として、⼀緒に作る⾏為なのです。

6 ⽉ 21 ⽇に⾏われた「ささしま共⽣会の集い」で、名古屋における炊き出し活動のはじめについて、松本晋さんが話してくださったのですが、彼はこう⾔いました。「炊き出し活動を⾏うようになって、助けようと関わってきた中で、ある野宿者のグループがあった。その⼈たちに⾷べに来るように関わろうとしたら、そのグループのリーダー格の⼈から怒鳴られた。『お前らは、俺たちのことが分かっていない。』と。そのとき、ようやく⼀緒に⽣きるということが分かった。」と。それまで、⾃分は上から与える気持ちで関わっていた。でも、その⼈たちのことを優先するのではなく、⾃分が良いことをしているということに⽬が向いていた。その⼈たちが、何を感じ、何を考え、何を求めているのかを、⼀緒に考えることがなかった。これを反省したとおっしゃっていたのです。

イエスに「誰が隣⼈になったか」と問われて、律法学者が「サマリア⼈です」と答えなかったことに、サマリア⼈と答えたくなかったのだろうと考える⼈が多いのですが、わたしは最後の律法学者の答えは本質的なことを捉えて、答えたのではないかと思えてきました。律法学者は、イエスの⾔うことを正しく理解したのです。それで、「⾏って、あなたも同じようにしなさい。」と、イエスは⾔ったのです。

そこには「そうすれば、永遠の命を相続するであろう。」という⾔葉はありません。イエスは、ただ「同じようにしなさい」と⾔うだけなのです。イエスが⾔う「同じようにしなさい」という⾔葉が語っているのは、同じように憐れみを⼀緒に作りなさいということでしょう。憐れみを⼀緒に作るために、あなたも⾏きなさいとイエスはおっしゃったのです。それは、⾏えば、永遠の命を相続することができるということではないのは明らかです。むしろ、⼀緒に⽣きなさいということです。「あなたは生きるであろう」とイエスがおっしゃった通りです。そのとき、思いを起こされたわたしが⾏うということです。⾃分は隣⼈を愛しているなどと他⼈に⾔う必要はない。まして、神さまに、わたしはこんなに隣⼈を愛しているので、永遠のいのちを相続させてくださいなどとは⾔えない。必要なとき、必要な⼈と⼀緒に⽣きるだけ。

ルターは、このたとえを通して、強盗に襲われて傷ついているわたしを助けてくださったのはキリストであると受け取りました。ということは、神さまがわたしを救うために、キリストを派遣してくださったということを、このたとえに⾒出しているわけです。イエスは、わたしと⼀緒に憐れみを作ってくださったということです。これが聖書のたとえ、イエスのたとえが語っていることでしょう。イエスはたとえを通して、倫理を教えているのではありません。イエスのどのたとえにおいても、神の⼒を教えてくださっています。神さまがすべてを⾏っておられる世界を⾒せてくださっています。そうであれば、このたとえだけを倫理的に、道徳として受け取るなどということはおかしいでしょう。もちろん、罪に⽀配されたわたしには、このサマリア⼈のような⾏動はできないと思う⼈もいるかも知れません。それでも、神に派遣されたときに、神の意志に従って⾏うことはできるのです。倒れている⼈の隣⼈として⽣きるということは、その思いを起こされた⼈に可能なことです。今日の第一日課にあるように「御言葉はあなたのごく近くにあり、あなたの口と心にあるのだから、それを行うことができる。」ということです。

誰かが倒れていたならば、何も感じないはずはないのです。感じたことに素直に従うならば、サマリア⼈のように⽣きることになります。感じたことを抑えて、⾃分の⽣活を考えるとか、家族のことを考えると、レビ⼈や祭司のようになります。それだけのことでしょう。わたしたちは、派遣されたとき、出会った⼈と共に、憐れみを作る働きに召されているのです。それが、イエスが招いてくださる世界です。この⼈と⼀緒に憐れみを作りなさいと召されている。そのときどきに、与えられた働きを喜んで担っていく⼀⼈ひとりでありますように。あなたは、憐れみを⾏う者として、想いを起こされ、派遣されているのです。

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