2025年8月3日(平和主日)
ミカ書4章1節-5節
本日は平和主日です。毎年8月の第一日曜日を平和主日として守るわけですが、今年は特に参院選で躍進した政党が第二次世界大戦のきっかけとなったドイツのある政党に非常に似ているということを思わされる年でもありますので、聖書が語る平和について良く考えてみる必要があると思えます。
今日の第一日課のミカ書で語られている言葉、「彼らは剣を打ち直して鋤とし、槍を打ち直して鎌とする。国は国に向かって剣を上げず、もはや戦うことを学ばない。」という預言の言葉は戦いの道具を農耕の道具に変えると述べています。戦うことを学ばないということは、相手を殺すことを学ばないということです。そして、生きるための農耕を学ぶということでしょう。しかし、現代においても20世紀初頭においても、戦争を肯定する政党、核兵器を肯定する政党は、生きるために戦争が必要だと言います。攻めてくる相手を殺害することで、自分たちは生き残ることができるのだと主張します。生きるための戦いが戦争であり、核兵器を持つことで生き残ることができるというわけです。
預言者ミカという人は、預言者イザヤと同時代の人です。紀元前725年から700年頃に活動した預言者です。大国による侵略の時代に預言したミカは、おそらくエルサレムでイザヤとも親交を深めたのではないかと思われます。ミカの預言の言葉とイザヤの預言の言葉が同じ言葉で預言されているということが、それを物語っています。今日読みましたミカ書4章1節から5節の言葉は、イザヤ書2章2節から4節に語られているイザヤの預言の言葉と同じです。
「終わりの日に」と言われていますが、これは神ヤーウェがすべてを支配なさる日という意味です。その日には、イザヤが預言したことと同じように「残りの者」が神ヤーウェの許へと帰ってくるとミカは預言しています。それはミカ書2章12節の言葉です。「ヤコブよ、わたしはお前たちすべてを集め、イスラエルの残りの者を呼び寄せる。」と。この「残りの者」の思想は、最終的に新約聖書に受け継がれて、「聞く耳のある者」のこととなっています。イザヤやミカは、当時の指導者たちを糾弾しました。それゆえに迫害も受けました。それでも、神ヤーウェが「残りの者」を連れ帰ると預言したのです。あくまで、神が残された者たちが存在するという神の力に信頼した預言者です。
このミカが預言する平和は、戦いについて学ぶことのない「残りの者」が起こされるという預言です。しかも、この平和は、神の言葉に従って起こされる神の平和だということです。そのときには、戦いの道具が、農耕の道具に変えられると言うのです。本来生きるためになすべきことは、土を耕すことであって、戦うことではないのです。それは、原罪を犯したアダムに向かって神が語った言葉に基づいています。「お前は顔に汗を流してパンを得る、土に返るときまで。お前がそこから取られた土に。塵にすぎないお前は塵に返る。」と神ヤーウェはアダムに語りました。これは、土を耕すことを通して、塵に過ぎない自分がいかにして生きるようにされたのかを思い起こすということです。本来、神さまが与えた働き、土を耕すという働きを生きる。それが神に立ち帰ることであるとミカは預言したのです。それが平和の預言です。
わたしたちの社会、国、世界は、このような平和を求めません。普通の生活ではなく、より良い生活を求めます。もっと便利で、効率的な生活を求めます。もっとお金が貯まる生活を求めます。もっと地位が上がって、人を使う者になりたいと思います。こうして、国の指導者たちも自分の地位向上に汲々として、普通の生活を知らないままに生きています。普通の生活をする人たちからお金を取って、自分たちの腹を満たす。これが、ミカやイザヤが見た当時の国家指導者たちの姿です。今も何も変わっていないことは、わたしたちにも良く分かることです。
人間存在は何千年経っても変わらないのです。なぜなら、一人ひとりが変わらないからです。一人ひとりの人生は、その人しか生きることができません。何千年前に生まれた人と、今日生まれた人に違いは何もないのです。一方で、わたしたち人類が発見した知恵や知識は積み重ねられています。しかし、生まれたての人間が何千年もの知恵と知識をすべて受け継いでいるわけではありません。一人ひとりがゼロから始めるのです。ゼロから、自分で学び、考えるのです。何千年経ったとしても、人間一人ひとりはゼロから始めるのです。前の人が戦争で苦しんだとしても、次の人は経験していないので、同じことを繰り返す。だからこそ、この世には戦争が絶えないのです。苦しんだ人がどれだけ訴えても、苦しんだことのない人には他人事です。それぞれの人生において経験したことから考えるしかないのです。だとすれば、わたしたちは何も進歩しないことになります。
この進歩しない人間が変わるとすれば、神の言葉が一人ひとりを造り替えることしかないのです。しかも、神の言葉を聞く耳を開かれた「残りの者」しか聞かないのです。そうなると、最終的に「残りの者」として神が聞く耳を開いてくださった存在によってのみ、わたしたちの世界は変わり得るものとなるわけです。これを人間が来たらせることはできない。これがミカの預言であり、イザヤの預言なのです。あくまで、神のみがこの世界を変えることができるという預言です。
これが確かであることは、わたしたちが経験した第一次世界大戦、第二次世界大戦によって証明済です。そして、そこから何も変わっていないので、現代のロシアとウクライナ、イスラエルとパレスチナ、イランの間の戦争が繰り返されています。その他にも多くの戦争がさまざまな国で起こっています。ここから脱け出すことができるのか。世界は再び二つの勢力によって戦いへと突入していくのか。これは分かりません。分かっているのは、人間はいつまでも争うということです。これは、国家間の戦争に限らず、社会における人間同士の争いにも言えます。いつまでも争う人間同士がいるのです。お互いに、自分たちが正しいと主張し合うので、解決はありません。ですから、わたしたち人間は平和を生きることができない存在だということを知らなければなりません。そして、神に祈る者でなければなりません。
神に立ち帰る「残りの者」は、祈る人です。神が為し給うことを信頼して祈る人です。そのような人が一人でも増えていくことで、この世に争いがなくなるための一歩が踏み出される。神の言葉によって、一人ひとりが祈る心を起こされるならば、平和へと踏み出して行くでしょう。
このような「残りの者」は、説得すれば増えていくものではありません。むしろ、説得しようとすると対立が起こります。説得することは、わたしの立場と同じにしようとすることですから、違う立場の人からすれば、わたしの考えに取り込まれることになります。誰でも取り込まれたくないものです。自分の方に取り込みたいのです。ですから、説得することによって相手を変えようする。しかし、自分が変わらないのに、相手だけを変えようとするのですから、変わるはずはありません。世界が変わるとすれば、神の力によってしか変わらないということを知っているならば、説得や力尽くのねじ伏せは行わないでしょう。この世の戦争は、力によるねじ伏せでしかありませんから、どちらかが負けて、戦争が終わったかに思えても、またぶり返してくるものです。これは永遠に続いていく争いの法則でしょう。そこから脱け出すことが必要なのです。それが、ミカやイザヤが預言した「残りの者」なのです。
「残りの者」は神によって起こされる。「残りの者」は神の言葉が創造する。「残りの者」は人間に頼らない。このような存在を作り出すことは人間にはできない。神によって起こされた思いに従って、一人ひとりが生きていくことだけが平和への道でしょう。わたしたち人間が作り出すと考える平和は、争うことによって平和になるという矛盾した道です。そこには平和はない。争いが膨らむだけ。ただ、神に信頼して祈るところから始まるのが平和への道。この道を開いてくださったのは、イエス・キリストです。
十字架で殺害されたイエス・キリストは、殺害者に復讐することなく、彼らを赦してくださいと神に祈りました。このキリストの十字架から神の赦しを受け取った者が、聞く耳のある人、「残りの者」でしょう。そのような小さなところから始めることを忘れないで、一人ひとりの責任において、平和を生きていきたいと思います。神の平和が、あなたがた一人ひとりを包んでくださいますように。