「心の在処」

2025年8月10日(聖霊降臨後第9主日)
ルカによる福音書12章32節-40節

今日の福音書は、「思い悩むな」というイエスの勧めと、別のたとえ「目を覚ましていなさい」という勧めとが続いています。「思い悩むな」の勧めの最後では心の在処がどこにあるのかが問われています。そして、目を覚ましている僕たちの話につながっています。心があるところのことを、ギリシア語ではカルディアと言いますが、人間の精神活動が綜合的に行われる場所のことをカルディアと言うのです。イエスは「あなたがたの大切にしているものがある場所に、あなたがたの精神活動が綜合的に行われる場所もあるのだ」とおっしゃっているのです。その心の在処が、主人の帰りを待っている僕たちの姿として述べられているということです。

「心はどこにある」と聞かれて、わたしたちは心臓を指しますね。頭を指す人はあまりいないかも知れません。頭は「考える」という精神活動が行われる場所ですから、「こころ」とは違うと思うのでしょう。心は心臓がどきどきしたり、落ち着いていたりと、感情に揺さぶられた結果が心臓の鼓動に影響するので、「こころは心臓にある」と思ってしまうでしょう。確かに、この区別は正しいかも知れません。論理的思考は頭。感情的な鼓動は心臓。

先ほど申しましたように、「思い悩むな」とおっしゃった言葉の中には、「ただ、神の国を求めなさい。」という言葉があって、「小さな群れよ、恐れるな。あなたがたの父は喜んで神の国をくださる。」とイエスは語っておられます。この「恐れる」ということによって、わたしたちの心臓の鼓動は早くなります。反対に、「恐れない」ことで心臓の鼓動は落ち着きます。「恐れるな」とイエスがおっしゃる言葉は、感情ではなく、論理に従いなさいということです。ただし、論理と言っても、神の国を求めること、神の国を神さまがくださることは、神の国の論理です。地上の論理ではありません。地上において、「明日どうしようか」と思い悩むのは感情でしかないということです。もちろん、地上的な論理においては、明日の食べ物がないという事実があるわけですが、その事実に対して、感情で「明日どうしよう」となる。これがわたしたち人間の罪の状態です。わたしたちが、そこから脱け出すために、イエスは語ってくださっています。

ルカにおいては、神の国は神の義しい支配ですから、神の国と神の義は一つです。この神の国は、神ご自身のことですから、神を求めなさいとイエスはおっしゃったわけです。これは、天の富も同じことです。天の富という言葉は、「天の倉」とも訳せますし、「天の宝」とも訳せます。「倉」には「宝」が保管されていますので、「倉」も「宝」なのです。神が義しく支配する国は、神ご自身でもあるということと同じです。だとすれば、「天の富」も「神ご自身」ということになります。しかし、「天に神を積みなさい」と言われると、意味が分からないことになりますので、イエスは「天に富を積みなさい」とおっしゃったのです。

さらに、その富を積むためには、「自分の持ち物を売り払って施しなさい。」と言われていますので、自分の所有を捨てること、自分で所有するという生き方を止めることを意味しています。ですから、「天に富を積む」とは言っても、自分で所有できない天に宝の倉を作るだけです。わたしは地上に生きていますので、天に倉を作ることなどできません。そう考えてみれば、天の宝は神ご自身であることを信頼して生きることが、イエスがおっしゃっていることになります。その神の国は神さまが与えてくださるのだと言う通りです。そこに、心が関わってきます。

先ほど見ましたように、感情的な心と論理的な心とがあります。感情的な心は信仰には至りません。右往左往するだけですが、それは自分で何とかしなければと思うからです。そして、心臓はどきどきします。信仰における論理的な心に従えば、神さまが与えてくださらなければ、わたしは生きていないのだから、神さまがわたしを見守ってくださっていると信じることへと向かいます。この場合、地上的な感情に左右されることはありません。

この神が見守っておられることを、イエスはたとえで話してくださいました。出かけた主人が帰ってくるのを待っている僕たちの話です。ここでは「目を覚ましているのを見られる僕たちは幸いだ」と言われています。これは「僕たち」の話です。ですから、複数の僕たちが交代で、主人が帰ってくるのを「見守っている」という話なのです。一人で見守っていることなどできません。「目を覚ましていなさい」ということも複数ならば可能です。いつ帰ってくるのか分からない主人を寝ないで待っていることなどできません。交代しながら、待っている。その働きは、複数の人たちの働きですから、全員が主人の帰宅という事柄に注意しているということです。これを「目を覚ましている」という言葉で表していますが、原語は「見守っている」という言葉です。そして、帰ってきた主人は、ご自分を迎えた僕たちが自分の帰りを見守っていたことを知ることになるというわけです。そのように見守っている僕たちのために、主人は食事を用意して、給仕してくださるとまで、イエスは言うのです。これは驚くべきことです。これが神の国の論理だということです。地上的に考えれば、主人が食事を提供してくださることなどないからです。

神の見守りがあって、わたしたちは生かされているという信仰は、わたしたちも神がわたしたちのそばに来てくださることを見守っているのでもあります。信仰は、わたしを見守ってくださる神と、わたしが見守っている神の訪れの両方に関わっているのです。わたしが信頼する神は、神の方もわたしに信頼してくださるということですね。このような神さまとの関係に入ることが信仰ですから、信仰的論理は地上の論理とは違います。そう考えてみれば、天の宝は神ご自身です。仕えてくださる神が、わたしたちを見守っているという信仰によって、神の訪れを待ち続けることができる。神の国がそばに来ることを信頼して生きることができる。このような神さまとの信頼関係に入るならば、わたしたちは何も恐れることがないのです。地上的な感情に揺さぶられることがないのです。そのとき、わたしたちは神の国に生きていると言えます。

わたしたちが神の国に生きるということは、わたしの心が天に向いているということです。反対に、地上の感情的なものに左右されるならば、心は地上に向いているのです。そして、右往左往して、自分のことしか考えないことになってしまいます。地上に縛られるならば、わたしは地上の宝を求めることになって、失われる宝をどうやって守ろうかと汲々とします。一方、天上の宝に心を向けているならば、地上において如何なることがあろうとも、慌てることはありません。むしろ、神さまに祈り求めるでしょう。そして、祈った結果がすぐに現れないとしても慌てない。こうして、神さまとの信頼関係の中で平和を生きることができるということです。

わたしたちが心を向けているのが、地上の人間関係や地位や財産であるならば、それらは失われます。壊れます。盗まれます。しかし、天上の宝である神さまとの関係に、心が向いているならば、その宝は盗まれることもなく、壊れることもありません。神さまが永遠であるように、地上の感情的考えでは理解できないことが起こるのです。それは、目的を持っていない生き方なのです。なぜなら、天上の宝からわたしに与えられるものが何であるかはわたしには分からないからです。ただ、わたしたちがなすべきことは、たとえの僕たちのように、主人が帰ってくるということのみに注意して、見守っていることだけなのです。

わたしたちが目的を持つとき、その結果だけが重要になります。それは非常に狭い生き方です。広く、自由に生きるには、目的ではなく、原因が必要なのです。わたしたちが生きる原因。それが、神が見守っておられるということであり、神がわたしの許を訪れてくださるということです。これは目的ではありません。これは約束なのです。ですから、約束に基づいて、生きるということが信仰によって生きることなのです。

信仰的論理には落胆ということがありません。むしろ、生きるための力、原動力をいただくことが信仰的論理なのです。この信仰的論理を働かせるのは天の宝を信じる信仰です。天に、神に、あなたの心の在処があるならば、何も心配することはない。思い悩むこともない。心の在処が天にあるならば、神の国はあなたのそばにある。あなたは神の国の住人。神の見守りのうちにある。豊かな恵みの神にすべてを委ねて、生きていきましょう。

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