「偽善を燃やす火」

2025年8月17日(聖霊降臨後第10主日)
ルカによる福音書12章49節-56節

「分ける」とか「分かれる」ということは、違うことがはっきりするということです。これとそれは違うので分ける。わたしとあなたは違うので分かれる。これが、イエスがおっしゃっている「分裂」ですね。わたしたちルーテル教会は、それまでの教会が教えていたことと違うことを教えました。「聖書が語っていることではない」ということで、それまでの教えと聖書の教えとを分けたのです。

このようなことは、どこにでもあります。「伝統的にそうしてきた」とか「昔からそうしている」ということについて「本当にそうなのだろうか」と考えたのがルーテル教会です。そのような意味では、「本当にそうなのだろうか」と考える教会がルーテル教会だと言えます。「これまでそうしてきたから、これからもそうして行くのだ」という人たちに対して、「ちゃんと自分で聖書を読んで考えて、そうしているのか」を問うたのがルーテル教会です。聖書が語っていることだけに立つということで、マルティン・ルターは「我ここに立つ」と言いました。あくまで、神の言葉、聖書の言葉、イエスの言葉に立つというのが、ルーテル教会が立っているところです。今日の福音書において、イエスが「分裂」と言うのも、また「見分ける」と言うのも同じでしょう。

イエスは、56節で「偽善者たちよ」とおっしゃっています。空模様を見分けることができるのに、今の時を見分けることができない人たちのことです。この言葉を読んで思うのは、今のわたしたちの時代の様子です。今の時代を、かつてのナチス台頭時代の世界情勢と同じだと感じる人がいる。別の人たちは、この混迷の時代に自分たち日本人を守るために必要な対策を講じようと考える。一人ひとりの人間がどのような視点で世界を見て、どのように判断するかは違います。それぞれに見ているところ、立っている位置が違います。この世で上手く立ち回るために、不利益を被らない方につこうとする。上手く立ち回ることよりも、おかしいことはおかしいとする。そのほかにもさまざまな立場があります。それらの立場のどこに立つのか。いつの時代も社会は分裂しています。分裂が必ず起こると分かっているならば、分裂を回避するか、と言えば、自分を守ることを優先する。このような時代模様の中で、イエスは、ご自身の真理に基づいた分裂を生じさせるために来たとおっしゃっているのです。

その分裂は十字架に架けられることによって起こる。イエスが受けるべき洗礼とは十字架です。人間を分裂させるのが十字架だとイエスはおっしゃっています。わたしたちキリスト教会は、十字架が平和のしるしだと、思いたい。しかし、十字架が分裂を起こす。十字架の真理によって分裂が起こる。これは、キリスト教会の歴史が教えてくれることです。キリスト教会が分裂を生み出してきた。その中で、火を点けられた一人ひとりが自分の十字架を取って歩き出す。自分の十字架を取らない人は、強い方に賛同することが平和だと考える。

ナチスが台頭し、第二次世界大戦が起こってしまったのは、自分可愛さに、自分だけ逃れれば良いと考える人が多かったからです。自分だけ助かろうと、目の前の都合の良い方につくことになる。その混迷した時代に、正しいことを言う人は、排除されます。

今日の日課の続きの箇所では、イエスはこうおっしゃっています。「あなたがたは、何が正しいかを、どうして自分で判断しないのか。」と。自分が排除されたくないから、正しいことが分かっていても、黙っていて、相手の言うことに賛同してしまう。続きの箇所のたとえでは、訴えられることが分かっているならば、仲直りするでしょうとイエスは言うのです。しかし、これがなかなかに難しい。相手の訴えが正しいと分かっているならば、悪かったと言うかも知れません。でも、相手の訴えが不当だと思うならば、仲直りなどしません。相手の偽善に負けないように対抗します。この分裂は、解消できないでしょう。

イエスが言う偽善とは、自分の都合で正しいことを曲げてしまう生き方のことです。このような生き方をしているならば、偽善者と呼ばれても仕方ないでしょう。しかし、わたしたちは自分を偽善者だとは思いません。相手が偽善者で、わたしを罠にはめていると思うのです。本当のことを言っているのに、罠だと思うということは、その人自身がいつもそうしているからです。偽善的に生きているのに、自分は偽善者だとは誰も思いません。わたしは偽善的に生きてはいない、義しく生きていると思っているからです。お互いにそう思って生きているならば、対立は解消しません。分裂が生じるだけです。イエスがおっしゃる分裂とは、このようなことなのでしょうか。お互いに理解し得ないし、お互いに自分の立場を守るということなのでしょうか。

家族の分裂という話が語っているのは、嫁が姑のご機嫌を伺いながら生きることや父のご機嫌を伺いながら息子が生きることなど、人間関係における上下関係の中で自分を抑えている者同士の分裂です。そこでイエスが語っているのは、自分を抑えないで、自分を生きるということでしょう。

こう言われても、「相手のご機嫌を伺うのがわたしらしいことです」、と言う人もいるかも知れませんね。それがその人なのであれば、自分がないことが自分らしいことになります。こうなると、何が正しいことなのか分からなくなりますね。それぞれに、今生きていることを肯定して生きている。それぞれに、今我慢して生きていることが自分だと思って生きている。それだけであれば、自分らしさとはいったい何なのでしょうか。「自分を持たないことが、わたしの自分らしさです」、と言う人がいるかも知れません。本当にそう思っているでしょうか。

ところで、わたしたちが何かを決断する際には、自分の立場から一番都合の良いことを選択して、決断します。とは言っても、自分の都合で決めて良いのだろうかという躊躇を覚えるものです。この躊躇を覚えること自体に、その人が「正しい」と考えていることが隠れているのです。これを一般的には「良心」と言います。時代模様に対してもまた同じように躊躇を感じることが起こるでしょう。ナチスの時代に、ユダヤ人たちの居場所を官憲に教えることができないと躊躇を覚えた人たちが少なからずいました。その人たちは、「どうしても、それはできない。」と躊躇を感じたのです。そこにこそ、「それで良いのだろうか」とわたしが考えている正しいこと、良心が潜んでいると言えます。

家族の分裂の話にしても、同じように、このように躊躇を感じることが起こるでしょう。そのとき、躊躇を感じたことを選択するならば、批判されることも起こります。「家族のことを考えれば、これが良いのに、どうしてそんなことを言うのか」と意見の対立が起こるでしょう。それでも、正しいことを選択するならば、分裂に至る。こうして、対立が生じる。としても、そのためにイエスは来たのだとおっしゃっています。それは、一人ひとりが神の言葉を聞いて、神の義しさの中に生きるためです。

わたしたちは、人間関係を壊さないように配慮することが正しいことだと考えがちです。そして、自分を誤魔化して、あるいは正しいことを選択しないで、人間関係を守ることを優先する。そのとき、正しいことは十字架に架けられている、イエスと同じように。これがわたしたちの偽善者らしい生き方です。その選択に慣れてくると、それが正しいことになっていく。そして、以前ならば偽善だと思っていたことが、偽善ではなく正しいことになっていく。こうして、わたし自身が失われていく。

イエスが、火を投ずるとおっしゃっているのは、そのようなわたし自身を失っている生き方のただ中に、火を投ずるとおっしゃっているのです。火を投ぜられたわたしの魂に火が点いて、わたしが本来生きるべき生き方に導かれる。これが、イエスが求めておられることです。そのために、イエスは十字架を負ってくださった。このお方の十字架が、わたしに火を点けて、わたしがわたしを誤魔化すことなく生きていく力をくださる。

イエスがあなたに与えてくださるイエスご自身は、正しいことを語り、神に従って生き、十字架に架けられたイエスご自身です。このお方の体と血が与えられる聖餐を通して、このお方があなたのうちに生きて働いてくださる。あなたが誤魔化して生きていた自分自身を、誤魔化すことなく生きる力として、イエスご自身が働いてくださる。素直に受け入れ、イエスに生きていただきましょう。イエスが点してくださる火に促されて。

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