2025年8月31日(聖霊降臨後第12主日)
ルカによる福音書14章1節、7節-14節
今日のイエスのお話のように、みなさんも末席から座っていきますね。できるだけ、後ろの方に座る。前の方が上席だと思っているからでしょうか。もしかしたら、教会では前の方が末席なのかも知れませんね。とは言え、今日の福音書でイエスがおっしゃっているのは「自分で選ばない」ということです。選ばないということは、与えられるものを受け入れるということです。
今日の福音書の最後で、「あなたは幸いだ。」とイエスはおっしゃっています。この「幸い」という言葉は「祝福されている」という意味です。祝福は、神さまから与えられる。与えられるものをそのままに受け取る。それが、祝福を受けることです。ですから「あなたは幸いだ」というのは、「あなたは、神さまが与えてくださるものを受け取る人だ」という意味です。だからこそ、「正しい者たちが復活するとき、あなたは報われる。」とも言われています。
義しい人というのは、神さまが認める価値ですから、神さまに委ねている人なのです。与えられるものを素直に受け取るだけですから、報いを求めて生きるのではありません。神さまが与えてくださることに全面的に信頼しているのが義しい人です。「お返しのできない人たちを招く」という言葉も、報いを獲得しようと期待しないということです。自分が獲得するという生き方を捨てることを、イエスは語っておられるのです。いずれにしても、すべてを神にお任せすることです。
しかし、どうして、神にすべてお任せする人が「祝福されている者」なのでしょうか。祝福されているならば、自分に力が与えられるとか、自分の支配力が広がるというように、この世を思い通りにできることだとわたしたちは思うでしょう。そのために、地位のある人を招く。そのために、友人を招く。人脈を作る。それが賢い世渡りだと、わたしたちは思っています。それなのに、自分のために何の力にもならない人を招いたところで、何の利益があるだろうかと思うのが、普通の考え方です。
末席に座ることは、見られたい自分を捨てることです。たとえのように、上席にお進みくださいと言われなかったら、末席のままです。そのとき、あいつはおれをそのようにしか見ていないのかと腹が立つかも知れません。それでも、その席はわたしに相応しい席として神さまが与えた席だと受け入れる。見えているところを競う周りに振り回されることなく、自分をありのままに受け入れる。それこそが、へりくだることでしょう。低くされることを受け入れる人を神さまは自分を捨てている人として見てくださる。
このようなことをイエスがおっしゃるのは、イエスを招いた人もまた、世間で噂になっているイエスを招いて、世間の人に自分を認めさせたいという気持ちだったからでしょう。この人は、イエスが来てくれたので、うれしかったことだと思います。そのような人に対して、イエスはお返しのできない人を招きなさいと言った。また、招かれた人にも末席に座れと言った。せっかくの宴席が台無しになるような言葉を語ったとも思えます。
「だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」とイエスはおっしゃっています。この言葉も、高められるにはへりくだる必要があると、わたしたちは受け取るものです。「低くされる」、「高められる」という言葉はどちらも受動態です。神さまによって「低くされる」、神さまによって「高められる」ということです。そうだとしても、神さまによって高められるために、わたしはへりくだれば良いと、考えます。それが謙遜であること、謙虚であることという価値観を生みます。果たして、そうでしょうか。そこにあるのは、やはり、価値あることを獲得しようとする意識です。イエスは、このような意識を捨てなさいとおっしゃっているのです。それなのに、わたしたちはどこまでも獲得する意識で考えてしまう。このような意識から脱け出すことができないのです。これは、わたしたちのうちに住んでいる罪が働いている結果です。だからこそ、イエスは、招いてくれた人と招かれた人全員に、話してくださった。あなたがたが普通だと思っている価値観を捨てなさいと。それが、神さまのご支配である神の国の生き方なのだと教えてくださったのです。
さてここで、今日の福音書で「お返しができない」と訳されていることをもう少し考えてみましょう。この言葉は「与え返す」という意味の言葉です。そして、最後の「あなたは報われる」という言葉も「それは、あなたに与え返されるであろう」となっています。つまり、神さまが与え返すという意味です。ですから、わたしが与えたものを返されるということですね。しかし、与えたとは言っても、その与えたものは、神さまがわたしに与えたものです。神さまが、ご自身のものをわたしに与えてくださった。その与えられたものを、わたしは他の人に与える。そして、最終的に与えたものがわたしに与え返される。だとすれば、最初に与えられたものがそのままわたしに返ってくることになりますので、何も増えていないのです。これでは、何の得もないということです。
当時の社会においては、招かれるとお返しにお金がかかるということで、断る人もいたようです。お返しをたくさんすることで、後々自分を支援してもらおうということも当然考えます。社会での交際においては、与えればもっと返ってくると考えられていましたので、与えたものが返ってくるだけでは何の得にもならないわけです。しかも、生きている間には、お返しはないとなるとどうでしょうか。生きている間に、何も得ることができないならば、しない方がましだと思えてしまいます。
このような価値観は、すべて自分の益となることならばするけれども、自分が損することはしないということになります。そのような価値観を捨てることをイエスは勧めているのです。
では、どうやって捨てることができるのでしょうか。わたしたちの価値観はどこから来たのでしょうか。何度も言っていますように、わたしたちの始祖であるアダムとエヴァが犯した罪、神のようになるために食べてしまった園の木の実から来たのです。原罪と言われるこの罪をわたしたちは宿しています。それは、「見る」ということに始まる価値観です。「見る」ことによって、わたしたちは知っているものとの違いを判断します。知っているものと比較するのです。「比較」することによって、これは「良い」とか「悪い」と判断することになります。誰かを見た結果、自分はこの人より上だ、下だという判断がわたしのうちに生まれます。この自己評価によって、わたしたちはもっと評価されたいと努力するということも起こります。そうして、わたしたち人間は進歩してきたと思っています。しかし、それは神の価値観から離れてしまったことなのです。
神の国の価値観は、すべての存在が「極めて良い」という価値観です。地位が高くても低くても同じ。人種が違っても同じ。男も女も同じ。財産が多くても少なくても関係ない。すべての人が、神が造られた存在だという点だけに価値があるということです。このような価値観によって生きる人は、「見る」ことに左右されないのです。「比較」することもないのです。わたしを造ってくださった神さまとわたしとの関係だけに目を向けて「見ている」人なのです。ですから、助けが必要ならば、人種に関係なく助けるでしょうし、国家を優先して、民衆を蔑ろにすることもないのです。このような国が、神の国ですから、国家を守るということもない。神の国は神さまが守っておられる。核兵器など必要ない。権力闘争もない。そのような神の国に生かされているのが、わたしだと一人ひとりが生きていくならば、末席に座ることも、お返しのできない人を招くことも、当たり前のことです。
今日、共にいただく聖餐は、イエス・キリストがわたしたち信じる者のために備えてくださった食事の席です。お返しをする必要などありません。ただ、祝福されている者として、キリストの体と血に与りましょう。「わたし自身をあなたに与える」、「あなたのために流した契約の血である」と言ってくださるキリストの言葉に従って、感謝していただきましょう。キリストの食卓に招かれたあなたは祝福されている者なのです。与えられた祝福を他の人にも与えていきましょう。