「自分自身を憎む者」

2025年9月7日(聖霊降臨後第13主日)
ルカによる福音書14章25節-33節

今日の福音書を読むと、イエスの弟子であることは大変なことだと、誰でも思うでしょう。わたしたちイエスに救われた者であっても、そこまではできませんと、誰でも言いそうです。「自分の命であろうとも、これを憎まないなら、わたしの弟子ではありえない。」とイエスはおっしゃっています。家族を憎むとか、自分の命を憎むって、どういうことだろうと思いますね。今世間で言われている「ヘイト」のようですが、聖書が言う「憎む」とはヘイトとは違うと言う人もいます。しかし、「憎む」と言うことは、関係を断つということです。家族と関係を断つ。そこまでしなければ、イエスの弟子ではないと言われると、「それなら、イエスさまのお話だけ聞いて、慰められれば、それで結構です。」と言いたくなります。とは言っても、今日の福音書には慰めはないように思えます。

その後の塔の建設と戦争のたとえでは、最後には「自分の持ち物を一切捨てないならば、あなたがたのだれ一人としてわたしの弟子ではありえない。」とおっしゃっています。自分の持っているお金で完成させることができるかを計算すること。また、勝ち目がないと分かれば、自分のすべてを捨てて和を求めるということ。このたとえで語られているイエスのご意志は、自分の意志を捨てることでしょう。自分の意志を捨てるということが「自分の命を憎む」ことです。「命」と訳されている言葉は「魂」だからです。自分の魂、自分自身を憎んで、神の意志に従うということです。

イエスは、宣教の始めには、皆から誉められ、喜んで迎えられ、弟子たちも増えました。しかし、次第に弟子たちは減っていき、最終的に十二弟子だけが残ったのです。そして、ご自分は十字架に架けられ、殺されました。フィリピの信徒への手紙に述べられているように、死に至るまで神に従順だったのです。たったひとりになっても、イエスは神に従順でした。

そうなると、イエスに従うということは、「イエスさまにくっついていれば、イエスさまが助けてくださる」ということではないようですね。わたしが「行きたくないなあ」と思うようなところに、イエスさまが行くとしても、それでもついていくのかということです。自分の思いとは違うことであろうとも、神さまのご意志に従う。神さまのお働きが行われるために、イエスに従う。そうなると、やはり家族から離れることになります。これが可能となるのは、自分を憎み、否定している人だということです。

わたしを非難し、否定する人がいても、まずわたしがわたしを憎んで否定していますから、否定の否定は肯定になります。誰かが自分の思い通りに生きるために、わたしが排除されるとしても、わたしから家族を離れていますから、家族や仲間がいなくてもわたしはイエスさまの友、イエスさまの兄弟姉妹です。この信仰によって、わたしの魂はわたしのものではなく、イエスさまのものです。だから、何もわたしを害することはできない。使徒パウロが言うように、「生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。」(ガラテヤ2:20)というところに生きることになります。

以前にイエスが分裂ということを語られたことがあります。家族が分裂するとおっしゃっていました。そこで見ましたように、家族の分裂とはそれぞれが自分自身に正直に生きることだと理解したのです。さらに、ここでは「憎む」ということが述べられています。分裂とか憎むということが家族について述べられるということは、家族関係の中で縛り付けられている一人ひとりが自分を生きるために、分裂も憎むことも述べられていると言えます。しかし、「父と母を敬え」という十戒の第四の戒めとは違うことにならないかと思えます。敬うことと憎むことが両立するとは思えません。これにしても、「敬う」ことが依存と混同されてしまうことにならないように、息子、娘が自立することでしょう。父と母がいなければ、このわたしはこの世に存在しないのです。そのような意味では、父と母を敬う。しかし、縛り付けようとすることや自分が依存してしまうことからは離れるということです。

これは、キリストが内に生きているわたしは、わたしではないようでわたしであるということと同じように思えます。自分の魂を憎むということは、自分の現状を守ろうとする自分の心を憎むということでしょう。それは、自分らしく生きるということではないように思えます。ところが、自分らしく生きるということは、自分の思いに従って生きることではないのです。自分の思い通りではないとしても、神さまが与えたものとして、自分を生きるということです。もっと言えば、最初に造られたままの自分を生きるということです。

わたしたちは自分らしくという言葉を誤解しています。自分の思いに従って生きることが自分らしいことだと勘違いしています。自分の思いは、罪に染まっていますから、罪深いのです。それをまた、ありのままに生きるというように言い換えることで、自分の思いに従って生きることが自分らしくありのままに生きることだと考えるわけです。現在のありのままであっては、自分を捨てていないし、自分を憎んでもいないので、結局罪深いままに生きることが自分らしく生きることだと主張していることになります。

世間に迎合する自分を憎む人がいるでしょうか。逆に、みんなと仲良くするために、世間に迎合したくない自分を憎むことでしょう。これは、世間に受け入れられたい自分を守るために、本当の自分を憎むことではないでしょうか。しかも、守るべき自分は、本来の自分ではなくて、社会から排除されない自分でしょう。仲間に入れてもらうために、本来の自分を捨てる。これでわたしは社会に受け入れてもらえる。今の地位を守ることができる。今の財産を失わなくても済む。このように考えているのが、一般的な人間です。もちろん、このような具体的な利益計算をしているわけではありません。無意識のうちに、目に見える自分を守っているだけです。そして、目に見えない自分は捨てている。これで、自分らしく生きていると思い込んでいるのです。

あなたの魂は、どこにあるでしょうか。あなたのいのちはどこにあるでしょうか。魂やいのちは見えません。見えている部分は、魂ではありません。いのちでもありません。神さまは、土の塵で造った人間の鼻に命の息を吹き入れて、人間は生ける魂となった、と創世記2章7節には記されています。わたしの見えている部分は土の塵です。神さまが吹き入れた命の息は見えません。だから、わたしそのものは土の塵ではありません。わたし自身であるわたしのいのちは、見えない。見せることもできない。それこそがわたし自身です。そのわたし自身が原罪に縛られて、神さまのご意志に従うことなく、見えるところで生きようと躍起になっているのです。

このようなわたし自身の魂は神の意志に反して生きている。そのわたし自身の魂を憎む。神さまのご意志に従うためです。そうすることによって、目に見える部分では、排除されることもあるでしょう。誰かから見捨てられることもあるかも知れません。除け者にされて、殺される人も出てくるかもしれません。それでもなお、神さまのご意志に従うとすれば、神さまがその人を生かしてくださるのです。それが、キリストの復活です。

「キリストと共に死んだのなら、キリストと共に生きることにもなる」とパウロは言っています。わたしたちが受けた洗礼は「キリストと共に死ぬ」洗礼です。それゆえに、キリストと共に死んだわたしは、キリストが生きておられる通りに生きることになるのです。これが、イエスがおっしゃる自分自身の魂を憎むということです。自分自身は土の塵ではないと認めること。神の息が吹き入れられたわたしが自分の本来の魂だと認めること。その本来の自分自身の魂を神の命の息として生きることなく、世間に迎合して生きようとする自分自身の魂を憎む。そのとき、わたしは本当の自分自身の魂、神の命の息を生きるのです。

確かに、わたしたちは自分で自分を捨てることができない。自分を守りたいと思う。みんなから嫌われたくない。排除されるのは嫌だ。そして、誰かを排除し、嫌い、自分だけを守ろうとする。結局、わたしの魂はそのように選択してしまうのです。これが原罪に侵食されたわたしの魂です。そんな自分自身は嫌だと、憎むことは、本当はわたし自身が求めていることではないでしょうか。自分に嘘をついて生きるのではなく、自分に正直に生きる。これができるのは、自分自身の魂を憎む人なのです。

しかし、そのような人を神は喜び迎えてくださる。イエスに従う者として受け入れてくださる。本来のわたし自身の魂が、神の意志に従って生きるために、ご自身を献げてくださったキリストの体と血に与る聖餐。これは、キリストと同じように生きることです。このお方の命がわたしの命と一つになって、生きる。このお方を生かしておられる神の力が、あなたを生かしてくださる。一己の存在として生きていく力を与えてくださる。この祝福されたいのちを生きるために、キリストの体と血に与りましょう。

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