2025年9月14日(聖霊降臨後第14主日)
ルカによる福音書15章1節-10節
迷っている。失われている。そのような存在が「わたしは迷っている」と思い、自分で帰ってくる。「わたしは失われている」と思い、元の場所に戻る。これが「悔い改め」だと、誰でも思っています。果たして、そうなのでしょうか。
認知症の人が、一人で出かけていって、戻ることができないとき、探し出して、連れ戻す人が必要になります。今日のイエスのたとえでも、羊も銀貨も誰かに探してもらって、連れて帰ってもらうのです。羊も銀貨も、自分から帰ってはいません。羊を探す羊飼いや銀貨を探す女がいなければ、どちらも元には戻らなかった。そうであれば、最後にイエスがおっしゃっている「悔い改める一人の罪人」という言葉は、わたしたちが考える悔い改めには、当てはまらないことになります。どういうことでしょうか。
「悔い改め」という事柄を、わたしが気づいて向きを変えることだと、わたしたちは思っているものです。わたしが反省して、悔いて、改めると考えています。ところが、このイエスのたとえに従えば、探す人がいて、連れ戻されることが「悔い改め」だということになります。探す羊飼いや女は、イエスや神だということになります。ということになれば、「悔い改め」とは、神やイエスによって連れ戻されることだとイエスはおっしゃっていることになるのです。
わたしたちは自分の立場から考えてしまいます。自分が関わっている世界しか見ていません。別の世界の人たちが、何を感じ、何を考え、どう生きているのかということには目を向けることがありません。その人たちのことを知ることもなく、批判だけはします。もちろん、自分の価値観からの批判です。ですから、「悔い改め」という出来事は、間違った方向に進んでいた存在が、イエスの言葉を聞いて、自分は間違った方向に進んでいたと思い直して、自分から神さまの世界に戻ることだと、わたしたちは考えています。これは、この世の考え方と変わりがありません。いろんなところで、「反省しろ」とか「改めろ」、「辞職しろ」などと言う人たちがいますが、その人たちは自分は正しいと思っています。イエスはそのような人たちに向かって、羊や銀貨を探し出して、連れ戻すというたとえを「悔い改め」のたとえとして語っているのです。
間違いに気づかなければ、戻ることはないでしょう。せっかく、上手く行っていると思っているのに、戻る必要などないからです。また、これが連れ戻されることであっても、それまでやってきたことがゼロになってしまうと考える人は、連れ戻されたくないということになります。ですから、上手く行かなくなったときに、悔い改めの機会が与えられると、わたしたちは考えてしまいます。
たとえに出てくる羊も銀貨も、迷っているのでしょうか。銀貨は迷っているなどと思うはずもありません。羊なら迷っているという認識はなくても、うちが分からないでウロウロしているのかも知れません。認知症です。ただし、そのようなとき、連れ戻してくれる存在に素直に従うのかどうか。それが自分の羊飼いだと思い出せば、喜んで抱かれることでしょう。しかし、たとえ自分の羊飼いだと分かっても、行きたいところに行こうとしている羊は、連れ戻されたくないと、拒否するかも知れません。そうだとすれば、「悔い改め」はちょうど良いときに、ちょうど良い連れ戻しに出会うことだと言えます。ちょうど戻る気持ちになっていたときに、羊飼いが迎えに来てくれた。ちょうど良いときに、女が見つけてくれた。そのときがあるのです。それは、神さまのときです。
イエスのたとえでは、「見失った羊」であり「無くした銀貨」となっています。羊や銀貨が「自分は見失われている」とは思っていません。「見失った」と思っているのは、持ち主です。つまり、神やイエスが見失ったと思っているのです。その神やイエスが探し出して、連れ戻すことが「悔い改め」だとイエスは言うのです。しかし、この「見失った」とか「無くした」と思うのが神だとしても、他の九十九匹や九個の銀貨はどう思っているのか。彼らは、いなくなった一匹のことを考えているのか。無くなった一個の銀貨のことを考えているのか。そう考えると、他の九十九匹や九個が見失っているのが、一匹であり一個だということです。自分たちのことだけで精一杯なのか。あるいは、一匹や一個を見失っても、何とも思わない。他の仲間がたくさんいれば、見失っても何も感じないだけではないでしょうか。
このたとえ話をイエスがなさったのは、罪人と言われる人たちや徴税人たちを迎えて、食事をしているイエスを批判する人がいたからです。イエスが一緒に食事をしている人たちのことを、羊や銀貨だとおっしゃっていると思えます。それを批判する人たちは、「悔い改める必要のない九十九人の正しい人」だと思っています。しかし、悔い改める必要がない人などいるのでしょうか。彼らイエスを批判する人たち、つまりファリサイ派や律法学者たちは、イエスのたとえに出てくる羊や銀貨に対して、「悔い改めて自分で戻ってこい」と言っているわけです。そして、イエスの許に集まるのではなく、自分たちの社会に頭を下げて、戻ってこいと言っているのです。この人たちの方が、悔い改める必要があるのではないかと思えてしまいます。
ファリサイ派や律法学者たちは、自分たちは正しい人間だと思っています。神さまの目から見れば、彼らは間違っているのに、自分たちは正しい道を歩いていると思っている。そのような人たちこそ、神さまを見失って、神さまの許から出て行った人ではないのかと、思えてしまいます。
イエスのそばにいるのは、多くの罪人や病人たちです。イエスの立場からすれば、彼らの方が連れ帰るべき羊や銀貨ではないのかと思えてしまいます。イエスの許に集まっている人たちは、大多数の正しいと思っている人間たちから罪人と呼ばれ、排除されて、また病気に苦しんでいた人たちです。彼らは確かにイエスに出会って、自らの苦しい状態から本来の神さまの許に生きる幸いに連れ戻されたと言えます。そんな自分自身が、百匹のうちの一匹、10個のうちの1個だと、彼らが考えるということも分かります。しかし、それは連れ戻された後に分かることです。彼らが連れ戻されて、イエスの許に集められて、一緒に食事をする。その姿を、「一緒に喜んでください」とイエスは言うのです。誰に言っているのか。もちろん、ファリサイ派や律法学者たちに向かってです。
ところが、この関係が逆転するのが、イエスの許で救われた人たちから見た神さまの世界の視点です。イエスに救われた罪人たちや病人たちから見れば、彼らを排除してきたファリサイ派や律法学者たちこそ、神の世界から失われた羊や銀貨だということになる。そして、彼らが悔い改めるならば、天には大いなる喜びがある。彼らの悔い改めは、彼ら自身からは生まれないので、連れ戻すお方が必要になる。そのお方こそ、イエス・キリストなのです。
もちろん、イエスの許にやってきた人たちも連れ戻された。連れ戻しは、神によって行われるので、罪人たちも病人たちも自分から立ち返ったわけではない。すべての人たちが自分で立ち返ることはない。神が連れ戻すことだけが悔い改めだと、罪人たちや病人たちは分かっている。
ファリサイ派や律法学者たちの立場からすれば、悔い改めて、立ち返るべきなのは罪人や病人でした。ファリサイ派や律法学者たちは正しいと思い込んでいた。自分たちは、悔い改めて、立ち返ったわけでもないのに、罪人や病人たちに悔い改めを迫る。しかも、自分たちの世界に入るように迫る。一方、神によって連れ戻された人たちからすれば、ファリサイ派や律法学者こそが連れ戻されるべき人たちです。彼らが守っていると思っているところは、神の国ではなく、人間の国なのです。そのようなところから、神の国へと連れ戻される。これが、イエスが言う悔い改めでしょう。このような世界を考えても見なかった人たちが、ファリサイ派や律法学者なのです。イエスは、そのためにこのたとえを語ったのではないでしょうか。
このような意味では、羊や銀貨が表しているのは、人間の無力さです。その無力な人間を探し出して連れ帰るのは、神さまの恵みなのです。これこそが、イエスがおっしゃる「悔い改め」という出来事です。
みなさんを連れ戻し、神さまのものとして生かしてくださったのは、神であり、イエスなのです。この恵みにちょうど良いときに出会い、連れ戻されたあなたが羊や銀貨です。連れ戻してくださった神さまにとっての高価で、大切な存在です。神の働きによって、救われ、連れ戻された自分自身を他の人たちと一緒に喜んで生きていきましょう。あなたを連れ戻してくださった神に感謝して。