「真実の友」

2025年9月21日(聖霊降臨後第15主日)
ルカによる福音書16章1節-13節

「あなたがたは、神と富とに仕えることはできない。」とイエスは最後におっしゃっています。この言葉と、不正な管理人の話はどうつながるのでしょうか。

「不正」と訳されている言葉は「不義」という意味です。つまり、「義しくない」、「義ではない」ということです。この「義」という言葉は、神の義を表していますので、神の義に従っていないことを「不義」と呼んでいるのです。さらに、主人がこの不義な管理人のやり方を「賢い」と評価していることも不思議に思えます。どうして「賢い」のかと言えば、この管理人のやり方は、主人が彼を訴えることができないようなやり方だったからです。

油にしても、小麦にしても、水増しして貸すということが行われていたのです。それは、実際の水増しなどではなく、貸し付けた量を多く記載していたということでしょう。それで、正規の量に減らしてあげたのが義しくない管理人だったというわけです。主人は、自分が神の義に従った正規の利息を超えた貸付をしていましたので、この管理人を義しくないとは言えなくなった。なぜなら、正規の量を貸したということに訂正させただけだからです。

レビ記には「あなたはその人から利子も利息も取ってはならない。あなたの神を畏れ、同胞があなたと共に生きられるようにしなさい。」(レビ記25:36)と記されています。このみことばに従って、利息を無しにしてあげたということでしょう。この管理人は、証文の書き換えを義しく行ったので、義しいことをした。それで、「不正にまみれた富について忠実」だったと言われているのです。つまり、不当に取り立てようとした富を正したので、神さまの言葉に忠実だったと言っているのです。

この「忠実」という言葉は、原文では「信仰」という言葉で「信頼できる」という意味です。信仰的にみことばに忠実に従ったという意味で「忠実」と訳されているのです。この管理人は、神に忠実であったということになるのです。それで、最後にイエスは「あなたがたは、神と富とに仕えることはできない。」とおっしゃる。この義しくない管理人は、「神の義しさ」に仕えたということです。

それまでは、主人の下で、主人の利益となるように働いていたのです。油や小麦を水増しして、利息をたくさんもらうようにしていた。それは、神の律法においては義しくないことです。この不義の手伝いをしていた管理人は、さらに自分の懐に入れていたのかも知れません。それが主人に密告されて、帳簿を調べられることになって、自分が何をすべきかを考えたわけです。それが、不正な貸しを作られていた人たちの利息分を正規のものに変更することでした。しかも、管理人本人が勝手に変更するのではなく、借りた人と話し合って修正をさせています。証文の書き直しを、貸主と借主が話し合って、修正したということになるわけですから、これも賢いことなのでしょう。

しかし、イエスはこの賢さについて、こう言っています。「この世の子らは、自分の仲間に対して、光の子らよりも賢くふるまっている。」と。これはどういうことでしょうか。神の義しさを中心に生きているはずの光の子は神の義しさに従って賢くふるまわないのでしょうか。パウロはテサロニケの信徒たち全員に「あなたがたはすべて光の子、昼の子だからです。」と言っていますので、キリストを信じる者たちは光の子なのです。この光の子は、この世の人たちを闇の子だと考えていますので、この世の生活の中で、闇の子のようには生きていかないということを大事にしているでしょう。そうすると、「不正にまみれた富」には手を出さない、関わらないことになります。それでも、イエスはこの不正にまみれた富を神の義しさに従って使用することを勧めているのです。

「不正にまみれた富で友達を作りなさい」とイエスはおっしゃっています。不正の富を不正ではないようにして、友だちを作る。これが「不正にまみれた富について忠実」であるということだとイエスはおっしゃっているのです。それは、不正の富を義しいものに変えるということが、信仰的な働きであるという意味です。信仰的な働きとは、お金を義しく使うことであって、自分のためにお金を上手く操作することではないということです。それは小さなことですが、信仰的観点から見れば、その人の生き方全体に関わる観点なのです。

そう考えてみると、この不正な管理人は、自分の不正を密告されて、職を失うことになって、ようやく神の目から見た義しいことを行うということに目が開かれたわけです。それまでは、不正を行っていても、主人のために上手く操作していると思っていたでしょう。それが高じて、自分のために上手くお金を操作するようになっていった。人間というのは、小さなことから始まって、大きなことへと広げてしまうものです。不正が見破られないならば、もうちょっとやっても大丈夫かなと思ってしまうのです。そうして、最初は小さな修正や操作であったものが、大きな操作になっていく。これが、人間のうちに住んでいる罪の働きです。不正な管理人は、このようにして、不正を行っても、多額の利息を課しても、何とも思わなくなって行ったのでしょう。しかし、自分の不義が見つかってしまったとき、我に返ったとも言えます。

わたしたちが我に返るのは、自分の地位や財産や仕事を失って、ようやく我に返るものです。小さな不義を行っていても、「これくらいは不義ではない」と思う。批判する人に対しては、「これくらいのことをどうして不義だと言うのだ」と反論する。「小さなことだから、大した不義を行っているわけではない」と思ってしまう。しかし、不義は不義です。大きさは関係ない。そして、義しいことも大きさではない。どんなに小さなことであろうとも、義しいことは義しいことです。どんなに小さなことであろうとも、義しくないことは義しくないのです。物事の大小で判断するものではありません。その行為を行うわたしの心の根が悪であるということを忘れてはならないのです。

この不正な管理人は、義しくないこと、悪を行っていたことを悔い改めたのでしょうか。彼は、自分から悔い改めたわけではありません。どうしようもなくなって、ようやく義しいことに目が覚めたと言えます。それでも、自分が助かる道を探しただけです。そして、それまで行ってきた義しくないこと、不正が悪かったと思ったのでもない。相手に得になることをしてあげれば良いと思っただけでしょうが、その得になることをするために、主人が自分を訴える口実を与えないようなやり方を見つけたということです。それは、神の律法から見て義しいことを義しく行うことだったというわけです。

友だちを作るために、不正にまみれた富を義しくした。通常ならば、他の金持ちに取り入るということを考えるのかも知れません。しかし、彼は虐げられている人たちが自分を家に迎えてくれるように働いたと言っています。彼は不正を正すことで、友だちを作ろうとした。自分が不正を行っていたことを反省したわけではないとしても、彼が友だちを作るためには義しいことを行うことが必要だと目覚めたことが重要なことなのです。そう考えると、友だちとはいったいどのような人なのでしょうか。

困ったときに、家に迎えてくれる人だと、不正な管理人は言っています。イエスはさらに進めて、永遠の住まいに迎えてもらえるとおっしゃっています。これはどういうことでしょうか。永遠の住まいとは、神の国のことです。信仰的に義しいことを行って、友を作るということは、信頼し合える人を作ることです。そのような人は、たくさん作る必要はない。一人で良いでしょう。信頼し合える人は多くはない。一人くらいしかいないものです。たくさん友だちがいると自慢する人がいますが、薄っぺらい友だちなど何人いても仕方がないものです。そのような意味では、この不正な管理人が友だちを作ったと言っても、二人だけです。それで十分なのです。

しかも、義しいことを共有できる友だちは少ないものです。義しくないことを共有しても意味がありません。義しいことを義しいと理解し合える友だちは本当に少ない。そのような友だちを作ることを、イエスは勧めています。

みなさんはそのような友だちを作っていますか。究極的に義しい友だちは、イエス・キリストです。このお方は、決して嘘をつきません。このお方は、決して裏切りません。このお方は、決して見捨てません。最後まで、わたしを友と呼んでくださいます。イエスだけが真実にわたしの友となってくださいます。この世の不義によって、葬り去られても、わたしのために義しいことをなしてくださったのはこのお方だけです。あなたを神の義しい世界に生かしてくださるのは、イエスだけ。このお方の真実ないのちをいただく聖餐に与って、このお方の友として、神の国に生きていきましょう。あなたは、イエスの友。信仰に従って義しいことを大切にして生きるあなたをイエスは支えてくださいます。

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