「十分の一の信仰」

2025年10月12日(聖霊降臨後第18主日)
ルカによる福音書17章11節-19節

信仰という出来事は、一人ひとりに与えられ、その人の人生に働きかける神の働きです。だからこそ、今日の福音書で十人の中のたった一人だけがイエスの許に戻ってきたのも当然なのです。集団で信じるわけではありません。一人で信じる。イエスに従うのも一人です。

教会を信仰の仲間とする考え方は、ルター派の教会論とは違います。ルター派の教会論は「神の会衆」が教会だと理解します。仲間が集まって、一緒に汗流して、泣いたり、笑ったりするのが教会だと言う人がいますが、これでは一般社会の普通のグループと何の違いもありません。今日の福音書で「ほかの九人はどこにいるのか。」とイエスはおっしゃっていますが、九人の仲間から追い出されたか、一緒に行けなかったたった一人だけがイエスの許へ戻ったわけです。九人は、この一人だけが離れていくことを何とも思わなかったのでしょうか。これが仲間なのです。そして、信仰を起こされることはない。何故なら、仲間がいれば十分だからです。そこにあるのは、人間同士の依存関係だけです。神に信頼するのはたった一人になったときなのです。

では、イエスの許へ戻ってきた一人の人は、どうして一人になったのでしょうか。

この人は「サマリア人」だと言われています。イエスは「この外国人のほかに、神を賛美するために戻って来た者はいないのか。」と言います。「清くされたのは十人ではなかったか。ほかの九人はどこにいるのか。」とおっしゃっていますから、イエスは十人全員が癒されたことをご存知なのです。それなのに、他の九人はどうして戻ってこなかったのか。戻ってきた人が「サマリア人」であり「外国人」であることがこの出来事を理解する鍵です。

みなさんは、サマリア人と聞くと、「善きサマリア人」のたとえを思い出すでしょう。このときも、イエスは「サマリア人」が神さまのご意志に従ったというたとえを話しておられます。そして、今日の出来事では、実際に「サマリア人」だけがイエスの許へ戻ってきたのです。このサマリア人は、ユダヤ人から差別されていました。かつて、ダビデ王が全イスラエルの王として支配していた時代、紀元前1000年頃には、北イスラエル国と南ユダ国を統一して支配していました。ダビデの息子ソロモン王の時代までは、統一王国だったのですが、ソロモンの息子の時代になると、北と南に王国は分かれます。そして、紀元前827年に北イスラエル国は、アッシリアの攻撃によって滅ぼされ、サマリアに別の民族が移住させられるのです。アッシリアの支配政策は、違う人種同士を結婚させる雑婚政策でしたので、北イスラエル国のユダヤ人たちの血に他民族の血が混ざることで、純粋性を失ったわけです。それで、南ユダ国の人たちからは外国人と同じく汚れたサマリア人として扱われることになりました。

このサマリア人が「善きサマリア人のたとえ」で出てくるのですが、今日の出来事ではサマリア人は外国人で、ユダヤ人ではないということで出てくるわけです。このサマリア人だけが、イエスの許に戻ってきた。他の九人はユダヤ人だったということです。

イエスが「祭司たちのところに行って、体を見せなさい」と言ったのですが、そのときにはライ病の症状が止まるという清めは現れていなかった。みんなで祭司のところへ行く途中、十人全員が清くされた。それが分かったとき、それまで同じ病気によって人々から嫌われ、除け者にされていた十人は、社会に受け入れられる状態になったわけです。病気を抱えていた間は、同じように社会から排除されているということで、同じ病気仲間として生きることができていた。しかし、病気が癒された時点で、仲間として結び合わせていたものが無くなったのです。そして、社会的な違い、ユダヤ人とサマリア人、ユダヤ人と外国人、ユダヤ人としての血とユダヤ人ではない血の違いが、はっきり現れたわけです。それで、仲間は解消され、一人サマリア人だけが残された。サマリア人は、エルサレムの祭司のところへは行けません。サマリアには神殿も祭司もなかった。それで、その人は、イエスの許へ戻って、神を讃美したというわけです。この人は、社会に戻ったのかどうかは分かりません。しかし、神を讃美するところに生きることになった。これが大事な点です。

仲間というグループを作っても、そのグループを一つにしている何かが失われると、仲間は解消されてしまうということです。病気だけの話ではなく、信条にしても、政治的立場にしても、同じことです。仲間は、一つの思想や価値観によって人間的に結ばれているだけですから、その思想に疑念が生じたり、価値観を覆されることが起これば、仲間は消えてしまうのです。このようなグループとキリスト教会とはまったく違うのです。

ルター派の信仰告白である「アウグスブルク信仰告白」の第7条にはこのようにあります。「唯一の聖なるキリスト教会は、常に存在し、存続すべきである」と。キリストの教会とは、常に存在していると述べているのですが、これは「教会とは全信徒の集まり」だと述べられていたことを、礼拝堂に集まっているときだけが教会だという誤解を招かないように「常に存在し、存続すべきである」と言われているのです。わたしたちが集まっているとき、そこに教会があるということ、ではなく、キリストを信じる者たちの集まりという総体がキリストの教会であるという意味なのです。だとすると、この「全信徒」には地上で生きている信徒だけではなく、天に召された信徒も入っているわけです。この信徒たちの全体がキリストの教会だということです。ですから、そこでは仲間意識などは関係ないのです。キリストを信じるという一点において一致していること。そして、福音が純粋な理解に基づいて説教されていること。それだけが教会が一つであるという一致点だと述べているのです。

ということは、今日の福音書で、たった一人しかイエスの許に戻らなかったとしても、その一人が神を讃美し、イエスに感謝し、イエスに従うということにおいて、キリストの教会の根源にある信仰が現れているのです。「立ち上がって、行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。」とイエスがそのサマリア人を祝福したのも肯けます。

信仰は一人ひとりのうちに働く神の働きなのです。仲間に働くわけではない。集団に働くわけでもない。ペンテコステにおいても、一人ひとりに炎のような舌が留まったのです。これが大事なことです。ですから、仲間に入れなくなったサマリア人だからこそ、信仰を起こされたとも言えます。このようなところに生きるためには、排除されることも必要だったのです。たったひとりになることも必要だったのです。

わたしたちは、ひとりぼっちにならないためにキリストに従っているわけではありません。仲間作りのために教会に来ているわけでもないのです。キリストに従うために、キリストを信じている一人ひとりとして、教会に集められているのです。この信仰の原点を今日確認しましょう。あなたが救われたのは、あなたに働いてくださった神の働きによるのです。仲間がいたから救われたわけではないのです。何かがあれば、すぐに捨ててしまうような人間同士のグループが教会ではありません。教会とは、キリストを信じる者たち一人ひとりが神の許に一つとされている出来事です。違う教会堂で礼拝していても、遠く離れたところで礼拝していても、礼拝を通して、天にある聖徒たちと共に、わたしたちは神を讃美しているのです。

このような救いを受け取るのは、ただ信仰のみ。ただ恵みのみ。そして、聖書のみによって、救われる。あなたは、ひとりの人間として救われた。ひとりの人間としてキリストに従った。ひとりの人間としてキリストのものとされている。信仰とは、今日の聖書が語るように十分の一の信仰でしょう。あなたは十分の一の信仰に与っている希な人なのです。この恵みを感謝して、イエスに選んでいただいた者として、従って行きましょう。あなたの信仰があなたを救ったとおっしゃるイエスの言葉が、あなたをキリスト者として生かしてくださいます。

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