2025年10月26日(宗教改革主日)
ヨハネによる福音書8章31節-36節
今日は宗教改革主日ですが、マルティン・ルターの信仰について学ぶときでもあります。この日に、洗礼式が行われますことも、わたしたちの幸いです。今日、洗礼を受ける山下稜さんは、真理の言葉であるイエスの言葉のうちに入れられて、洗礼の思いを起こされました。誰かが、洗礼を勧めたわけではありません。ご自身が決断したわけでもありません。神のお働きによって、この教会に導かれ、みことばのうちに生きるようにされたのです。自分で選んだとか、決断したということの危うさを山下さんも良く分かっておられます。最終的には、神さまがすべてをこのように導いてくださったというところに生きておられます。
ヨハネによる福音書において、真理の言葉であるロゴスは、イエス・キリストご自身です。このお方の言葉の内に留まるということは、どういうことでしょうか。言葉のうちに留まるということは、言葉の中に入らなければなりません。「言葉のうちに入る」というのは、どういうことだと思いますか。どこかの建物の中に入るということなら分かりますが、言葉のうちに入ることなどできるはずがないと思うものです。この美しい表現で語られている事柄はいったい何を伝えようとしているのでしょうか。
誰かの家に招待されて、その家に入るとき、その家が壊れそうだと思えば、入っても大丈夫だろうかと思います。あるいは、その家の人を信用していなければ、入ることはありません。「入る」ことがなければ「留まる」ことはありませんから、まずは信用して「入る」ことになります。でも、入っているうちに、ちょっとやばそうだと思えば、出て行くでしょう。そう考えてみれば、イエスの言葉のうちに入って、留まるということは、イエスの言葉を信用して、留まるということです。
では、信用できる言葉であるかどうかを、わたしが判断して、イエスの言葉の中に入るのでしょうか。入るということは、何をすることでしょうか。この表現が語っているのは、イエスの言葉に従うということです。入ることが従うことです。留まることは、従い続けるということです。イエスの弟子であるならば、当然のことです。ですから、イエスの言葉に留まる人は、本当にイエスの弟子だと言われているのです。
真理の言葉であるイエスの言葉に従い続けるならば、あなたは真理の言葉の弟子なのです。弟子というのは、先生から学んで、先生が教えてくださることを受け継いでいる人です。ですから、真理の言葉の弟子は、真理が教えてくれることを学んで、真理に従って生きているということです。
真理というのは、隠れなくあるもののことですから、真理に従って生きている人は、隠れなく生きているわけです。イエスご自身も隠れなく生きておられる。イエスの弟子も隠れなく生きている。この隠れないいのちというものを隠して生きているのが、罪に支配された罪の奴隷なのです。
みなさんも、隠して生きていることでしょう。誰かに「ここだけの話だよ」と言って話すことがあると思いますが、それを聞いた人は別の人に「ここだけの話だよ」と言うでしょうね。そして、「ここだけの話」がいろんなところで話されることになります。わたしたちは、隠して生きることができないのに、隠してしまうのです。そして、陰に隠れて、人を操るという人もいますね。そのような人の言葉は、信用できません。アダムとエヴァを欺いた蛇と同じです。
イエス・キリストは、このような隠れる人たちとは違って、隠れないいのちを生きているお方です。ですから、自由です。隠れるということは、不自由です。本当の自分を見せないで、隠して生きているのですから、見つからないように気をつけているでしょう。ですから、不自由です。さらに、そのような行動を取らざるを得ないようになることをしていますから、不自由です。この不自由さに縛られていることから解放してくださるのが、イエス・キリストの真理の言葉なのです。
この真理の言葉を信頼して、従って生きるならば、確かにわたしたちはイエスの弟子であり、真理を学んで行くことになります。真理を学ぶとどうなるのでしょうか。もちろん、イエス・キリストと同じように生きることになりますので、自由なのですが、十字架に架けられるのです。
「えっ、それは困ります。」と、離れて行く人もいるでしょうね。ですから、イエスはイエスを信じたユダヤ人たちに言ったと述べられているのです。「離れて行くなら、今ですよ。」と言っているようなものです。真理の言葉のうちに留まるならば、イエスの弟子になって、ユダヤ社会から攻撃されるでしょうが、それで良いと思うならば、留まりなさいと、イエスはおっしゃったのです。これを聞いて、反論している人たちは、留まりたくないのかも知れません。むしろ、イエスの弟子にならなければ、自由ではないと言われたと思って、わたしたちは誰の奴隷にもなっていませんと反論しています。この時点で、会話は噛み合っていないのです。ということは、この反論している人たちは、イエスの言葉の中に生きていないということです。だから、真理を知らないし、真理によって自由を生きてはいないということが明らかになったのです。
マルティン・ルターがエラスムスに反論した「奴隷的意志について」という文書の中で、述べられていることがあります。わたしたち人間は、馬車のようなもので、馬車である自分の上に乗っている御者、運転手が動かそうとする方向に行くものだと述べています。そして、わたしの運転手が悪魔であるならば、悪の方にしか行かないのです。その悪魔をキリストが蹴飛ばして、わたしの運転手になってくださると、わたしはキリストの望んでおられる方向へと向かうと、ルターは言っています。
イエスの言葉のうちに入るというのは、キリストがわたしの運転手になってくださることです。ですから、わたしから「イエスの言葉のうちに入ろう」と思って、入るわけではないのです。なぜなら、わたしの上には悪魔がふんぞり返っているからです。その悪魔を蹴飛ばしてくださるイエスがおられて、わたしはイエスの言葉のうちに入ることができるわけです。
そうすると、わたしがイエスの言葉、真理の言葉を信頼すると言っても、イエスが信じるようにしてくださらなければ、わたしは信じることもできなかったということになります。これが真実なのです。そして、この真実である真理を知るのは、イエスの言葉のうちに留まる人なのです。イエスの言葉を聞き続けて、イエスの言葉に従って、生きていく人は、真理を知って、自由にされる。イエスの言葉によって自由を与えられる。ここには、人間の力は一切入り込めないのです。人間の力、人間の思いはすべて悪であると聖書は語っているのですから、人間は自分で真理に従うことはないのです。イエスの言葉のうちに入って留まることさえも、人間が自分で入って留まるのではないのです。
そうすると、救いという出来事は、すべて神の働きだということになります。今日洗礼を受ける山下稜さんも、そのように導かれてきたのです。自分で選んだわけではない。自分で洗礼を決めたわけでもない。洗礼を受けようと思ったのも、そう思うように導かれたというだけです。
先日、洗礼の学びの中で、お話ししたのですが、洗礼を受けようという気持ちになったとき、信仰があったと思いますか、それとも洗礼を受けてから信仰を与えられると思いますかと、尋ねました。みなさんはどうでしたか。
信仰がなければ、洗礼を受けようとは思わないでしょう。では、洗礼を受ける前に信仰があることになります。そうすると、洗礼は受けなくても良いのでしょうか。洗礼は信仰をもって受けるのです。この信仰を与えてくださったのは、誰でしょうか。もちろん、イエスの言葉、真理の言葉です。山下さんも、教会に何故か導かれて、真理の言葉を聞き続けてきました。真理の言葉の中に置かれたのです。真理の言葉が彼の魂に働き、彼に信仰を与えた。そして、洗礼を受ける思いが起こされた。ということは、真理の言葉がそのうちに一人ひとりを置いてくださったことで、わたしたちは洗礼へと導かれ、真理であるイエス・キリストと一つとされるのです。
ルターが、見出した「信仰によって義とされる」というルター派の中心的な信仰は、あくまで神とイエス・キリストのお働きによって、救われるという信仰です。この一方的な恵みの神が、あなたを救い、一人ひとりを救い給うお方であることを覚えておきましょう。
神によって起こされた信仰によって、義とされるのですから、わたしたち人間には義とされる資格もないし、義とされる力もないのです。ルターの讃美歌「ちからなるかみは」のもとになった詩篇46編で、神ヤーウェがこうおっしゃる通りです。「力を捨てよ、知れ、わたしは神。国々にあがめられ、この地であがめられる。」
力無きわたしを救ってくださる神の言葉のうちに留まることができますように、神の助けを祈り求めましょう。

