「永遠を生きる今」

2025年11月9日(聖霊降臨後第22主日)
ルカによる福音書20章27節-38節

「すべての人は、神によって生きているからである。」とイエスはおっしゃっています。これは当たり前のことですが、すべての人が神の力を信じているわけではありません。自分は神によって生きていると信じているのは、信じている人だけです。もちろん、その人が信じているのは、神さまがみことばをもってその人のうちに働いてくださった結果です。神さまの言葉を素直に受け入れるようにしてくださった結果、その人は信じているわけですから、科学的に研究しても信じるには至りません。

このイエスの言葉を信じる人も、信じない人も、同じように神によって生かされています。そして、信じている人だけが、神によって生かされていることを生きている。信じない人は神によって生かされているようには、生きていない。つまり、この世の現実においては同じように生きているのですが、信仰の世界においては生きていない。ということで、死んだ後も神によって生きていないということになるわけです。ですから、アブラハム、イサク、ヤコブは、イエスの時代にはすでに地上的には死んでいるのですが、イエスは「彼らは生きている」と言うのです。「神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。」とおっしゃっていますが、アブラハム、イサク、ヤコブは生きているということです。死んだはずではないのかと、わたしたちは思ってしまいますが、彼らイスラエルの父祖たちは信じる者として神によって生きているということです。

しかも、このイエスの言葉は「復活」と関わっていますので、信じる者は復活に与っていて、死んでも生きているということです。ヨハネ福音書でイエスはこうおっしゃっています。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。」(ヨハネ11:25)と。死んでも生きることが復活だというわけですが、この言葉に続いてこうもおっしゃっています。「生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。」(ヨハネ11:26)と。これが「神は生きている者の神」とイエスが言うことと同じです。だとすれば、サドカイ派が復活を否定するということは、彼らはこの世でも神によって生きてはいないということになるのです。イエスは、そうおっしゃっていることになります。

わたしたち人間が生きているということは、この世において肉体をもって生きていることだと考えがちです。しかし、わたしたち人間が生きるということは、神によって生かされているところに生きることだと、イエスはおっしゃっているのです。そのように生きている存在は、死によって断絶することがないのです。なぜなら、神さまは生と死を越えているからです。生と死を支配しているのが神さまだからです。生と死は、この世の肉体に起こることであって、肉体を越えた世界に生きているならば、たとえ死んでも生きているのです。

むしろ、この世で、神の力によって生きていることを信じていない人は、すでに死んでいるのです。それがアダムとエヴァが木の実を食べたならば死ぬと言われたことでした。
ということは、サドカイ派の人たちは死んだ者の世界で生きているということになります。彼らにはこの世の現実だけが生きるということであった。だから、死んだ後のことなど信じるというのはおかしなことなのだと、イエスを批判しているのです。しかし、良く考えてみれば、彼らの方がこの世で自分たちの力で生きているという幻想を生きているわけです。

サドカイ派の幻想は、わたしたち人間一般の考え方です。この世だけが現実であって、あの世は幻想であると思っているのですが、この世が現実なのでしょうか。この世で働いておられる神さまの力があって、わたしたちは生かされているということが幻想なのでしょうか。科学的に証明できることは、わたしたちのこの世のいのちはいずれ死ぬということだけです。そのいのちを自分で死なないようにできないとすれば、わたしは自分で生きているわけではないということになります。この世のいのちを司っておられるお方がいて、わたしはこの世に生かされていると信じるわたしたちキリスト者の認識の方が幻想ではないと思えます。しかし、わたしたちの認識も証明できない。できるとすれば、イエスが復活させられたという出来事が真実であると証明しなければ証明にはなりません。ただし、復活などないということも、復活があるということも、どちらも証明できないのです。ということは、どちらも信じる事柄であるということになります。では、どちらを信じるべきなのか。

ここで、わたしたちは自分が信じたいことを信じていると言う人がいます。この世のいのちだけだと思う人も、復活のいのちがあると思う人も、どちらも信じたいことを信じているだけであるというわけです。そうであれば、どちらにしても信じるということが起こっているわけです。この信じることは、単に信じるのではなく、わたしが如何に生きるかにかかっている事柄です。

わたしたちは、この世では如何に生きるかを考えます。どのように生きれば、わたしは良い人生を送ることができるのかと考えます。この世で認められて、栄誉を与えられて、最後には皆から惜しまれて死んでいく。これが良い人生だと思って、この世で名誉を得ること、認められることを求めて生きています。ところが、わたしを認めてくれるのはいったい誰でしょうか。わたしの周りの人たちです。わたしを知らない人たちは認めてもくれません。わたしを知っている人たちの中で、わたしが認められることが最高に良いことだと、わたしたちは思い込んでいます。これは虚しいことなのですが、虚しいとは思わず、名誉や地位や財産を求めて、汲々としているのがわたしたちではないでしょうか。そのとき、わたしたちは、誰もが同じように認められているとは考えていません。しかし、「すべての人は、神によって生きているからである。」という言葉が語っているのは、すべての人が神に認められているということです。そこでは、地位も財産も名誉も述べられていません。ただ「神によって生きている」ことだけが述べられています。イエスは、わたしたち人間が人に認められても認められなくても、「神によって生きている」ことだけは皆同じだとおっしゃっているのです。

自分で生まれようとして生まれてきたわけではないのに、自分で生きていると思い込んでいる。これが幻想でなくて何でしょうか。地位や財産や名誉があって生きているわけではありません。神さまが生かしてくださっているから生きている。地位や財産や名誉は、あの世に持っていくことはできません。あの世に持っていくことができるのは、神によって生きているわたしだけです。持って行けないものを持っていても虚しいだけです。それらのものを取り除いたわたしが、あの世にあっても神によって生きているわたしなのです。

イエスは、この世の幻想に振り回されないようにと、今日の言葉を語ってくださっています。あなたは神によって生かされて生きているというところで、生きるべきなのだと教えてくださっている。この言葉に従って、わたしたちキリスト者は神の力を信じて、生きていくのです。生かされているいのちを生きていくのです。そのとき、わたしは地位も財産も名誉もなくて良い。ただ、生かされているわたしだけで良い。生かしてくださっている神さまがおられるから、わたしは生きていくことができる。そう信じて生きるとき、わたしは死んでも生きる存在として生きているのです。

この世のいのちがすべてであるという幻想から解放されて、永遠を生きる今を生きていきましょう。あなたは、復活に与かる者として、神の子。そのいのちに目覚めさせてくださったのは十字架のイエス。生かしてくださる神さまのお心を素直に受け入れ、生きていきましょう。永遠を生きる今を生きているあなたは、失われることのないあなたなのです。

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