「イエスの口と知恵」

2025年11月16日(聖霊降臨後第23主日)
ルカによる福音書21章5節-19節

イエスが与える口と知恵とはいったいどのようなものでしょうか。「どんな反対者でも、対抗も反論もできないような」口と知恵と言われています。新共同訳では「言葉と知恵」となっていますが、原文は「口と知恵」です。つまり、イエスが与える「口」、イエスが与える「知恵」と言われているのです。「知恵」は分かる気がしますが、「口」とはどういうことでしょうか。

「口」という言葉が示しているのは、確かに「口で語る言葉」のことでしょう。だから、「言葉」と訳したわけですが、一方で「口」という言葉で述べられているのは「イエスの口」ということではないかと思えます。だとすれば、弟子たちに与えられるのは「イエスの口」であり、その口から出てくる言葉は「イエスの知恵」だということになります。弟子たちが「イエスの口」で語る。弟子たちが「イエスの知恵」を語る。これはどのようにして可能なのでしょうか。

わたしたちが自分の口で語る場合、わたしのうちなる思いを口にするわけです。しかし、わたしの口がイエスの思いを口にするとすれば、わたしのうちにおられるイエスがわたしの口を使って語るということになります。そのためには、語る人が自分の思いを捨てて、イエスが語るままに語るということになるのです。これが可能となるのは、イエスご自身が弟子たちのうちに住んでいることが必要です。従って、イエスと一つとされている人であれば、「イエスの口」を与えられることになります。そして、「イエスの知恵」の言葉が、その人の口を使って語られるのです。

ということは、弟子たちがイエスを信頼して、すべてをイエスに委ねている必要があるわけです。このようにされる弟子たちは、いつそうなるのかと言えば、イエスが十字架の死を越えて、復活して、天に昇られた後ということになります。この世の目によってはイエスを見ることができなくなったときに、与えられる「イエスの口と知恵」だということです。それは、弟子たちに反対する人たちが、対抗できないような「口と知恵」と言われていますので、イエスの「口と知恵」でなければ、対抗できないということです。たとえ反論されてもなお、弟子たちが揺らぐことなく立つとすれば、自分の口と知恵ではないから立つことができるのです。イエスの口と知恵に反論が起こったとしても、弟子たちが迫害を受けたとしても、イエスが十字架を越えて、復活して、天に昇っておられるのですから、揺らぐことがないということでしょう。

「それはあなたがたにとって証しをする機会となる。」とイエスがおっしゃるように、弟子たちが迫害に遭うことは、「証しの機会を与えられること」だとイエスはおっしゃっているのです。つまり、自分たちが迫害されること、非難されることは、結果として証しとなると言われているわけです。それは、イエスの十字架が神の意志の証しとなったことと同じです。ですから、迫害に対抗しようとするなということでもあります。対抗するとき、対抗するわたしも相手の悪に巻き込まれてしまうことになるからです。だから、イエスは最後に言うのです。「忍耐によって、あなたがたは命をかち取りなさい。」と。この言葉は「あなたがたの忍耐において、あなたがたは保持しなさい、あなたがたの魂を」が原文です。つまり、忍耐することは、自分の魂を保つために必要なことだとイエスはおっしゃっているのです。

対抗するとき、わたしは相手と同じレベルで対抗することになります。しかし、忍耐は、相手と同じレベルに立たないようにすることです。イエスの口と知恵によって、イエスのように十字架を引き受けることです。イエスは対抗しませんでした。イエスはただ神のご意志に従っただけ。このイエスの忍耐は、対抗しないがゆえに、神が保ってくださるご自身の魂を守ったことなのです。それと同じように、弟子たちも対抗せず、自分の魂を守ってくださる神に信頼していること。それが、忍耐と言われていることです。そのように生きるためには何が必要なのでしょうか。

必要なのは、信仰です。信仰のみが、イエスと同じように忍耐する生き方をさせてくれるのです。家族や友にも裏切られるとイエスはおっしゃっています。イエスも裏切りに遭いました。殺される者もいるとイエスは言っています。イエスも殺されました。イエスと同じように、殺されても、ただ神に信頼して、対抗せず、与えられた十字架を引き受ける。それが弟子たちにイエスが命じておられることです。

イエスは命じるとはおっしゃっていませんが、これらの言葉はイエスの命令です。命令とは、命じられたことを行うことです。命令ですから、命じた人を信頼していれば、命令に従うものです。信じていなければ、命令に従うことはありません。ですから、弟子たちがイエスを信じていれば、命令に従うでしょう。そして、イエスによって命令が実現するのです。なぜなら、命令とは行うべきことであって、その人に命令に従う力があるということではないからです。命じられたことに忠実に従うとき、命じたお方の力が働いて、命令を実行させるのです。もし、命令通りに行かないとすれば、それは、命じた人が力の無い人間だからです。人間には力はありません。ですから、人間の命令は効果がないのです。神の命令だけが効果がある。それは、神ご自身が命令の中で働いておられるからです。

洗礼準備の勉強会では「小教理問答書」を学びますが、何を学んだか覚えていますか。学ぶのは、「十戒」、「使徒信条」、「主の祈り」、「洗礼」、「聖餐」です。最初の三つについて、マルティン・ルターはこのように解説しています。「十戒」は神の命令ですが、わたしたちに命令に従う力があるから与えられているわけではないのです。力が無いとしても、神の命令は命令として厳然と存在しているのです。人間はこのように生きるべきなのだという命令です。この「十戒」を学ぶことで、わたしには神の意志に従う力が無いということを学ぶ。そして、どこに助けを求めれば良いのかを学ぶのが「使徒信条」です。父なる神と子なるキリスト、そして聖霊なる神が助けてくださるということを述べているのが「信仰告白」です。その力をいただくために「主の祈り」が与えられている。主の祈りで祈る内容は、すべて父なる神さまが働いてくださるようにという祈りです。つまり、力の無いわたしが父なる神さまの力によって、神さまのご意志を生きることができるようにされるための祈り、それが主の祈りです。

今日、弟子たちに命じたイエスの命令は、イエスが実現してくださる。そのためにこそ、イエスが与える「口と知恵」がある。信じる者のうちに働いて、イエスと同じように生きることができるように支えてくださる。この信仰のうちに、弟子たちは忍耐するように勧められているのです。

わたしたちキリスト者は、キリストのものです。わたしがわたしのものとして生きていたところから、キリストによって救われて、キリストのものとして生きるようにされた。キリストに買い取られたのです。キリストがわたしたちを買い取って、キリストのものとして、持っていてくださる。だから、わたしが自分を保とうとする必要はない。イエス・キリストがわたしの魂を持っていてくださる。イエスがわたしのために十字架を引き受けてくださったように、わたしも自分の十字架を引き受けて生きることができるようにしてくださる。その力は、すべてイエス・キリストから与えられるのです。

力無いわたしであっても、力ある神の子イエス・キリストがわたしの主としてわたしを支配してくださる。このお方がわたしの主であるということは、イエスがわたしの主体だということです。あなたが主体ではないのです。あなたの力ではなく、イエスの力、神の力があなたを生かす。あなたの魂を保ってくださる。あなたの力を捨てて、イエスの力にすべてを委ねて、生きていきましょう。イエスの十字架の言葉が、あなたの口に与えられ、イエスの十字架の知恵があなたの内なる魂を守ってくださる。イエスの口と知恵によって生きていきましょう。

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