「救い主と共に」

2025年11月22日(聖霊降臨後最終主日)
ルカによる福音書23章33節-43節

他人を救うことができる人は、救われている人です。救われていない人は、他人を救うことができない。何故なら、自分が救われているところにいなければ、そこに救い上げることができないからです。ということは、他人を救ったイエスは救われているところに生きておられる。いえ、イエスは救いそのものだということです。イエスは、他人を救うために来られたお方です。だから、「あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる。」とおっしゃる。イエスと一緒にいるということが楽園にいること、救われていることだと、言うのです。その楽園とは神の国のことです。

イエスは神の国についてこうおっしゃったことがあります。神の国は、あなたがたのただ中にあると。地上においても、神の国があるとおっしゃった。その神の国は、わたしたちが見える形で来るものではないともイエスはおっしゃっています。見えない国が神の国です。しかし、使徒パウロが言うように、目に見えない神の性質は被造物に現れている(ローマ1:20)。神の国は見ようとすれば見ることができるということです。それなのに、人間は見ようとしない。見えているのに見ない。罪に曇らされた人間の心では見ることができないのが神の国です。

思い悩むなという言葉の中でも、イエスは、自然の中に働いている神の力を語られた。わたしたちの世界は神さまがお創りになった。だから、神の国です。神さまが支配しておられる世界です。人間は、神さまが支配しておられる世界にいながらも、人間の世界で生きている。人間の支配の中で生きている。神さまの世界が目の前にあるのに見ようとしない。見えているものの向こうで支配しておられる神さまを見ない。そのような心は、見えているものが自分の気に入るものでなければ見ないということです。自分たちの世界を破壊するものは見たくない。自分たちの世界を否定する言葉は聞きたくない。イエスが十字架に架けられたのは、イエスが彼らの世界を否定し、破壊すると思われたからです。十字架に架けた人たちは、イエスの本質を見ようとしなかった。自分たちの世界を破壊するものとしてしか見なかった。

神さまがお創りになった世界は神の国です。この世界が神の国であることを見て、神の国に生きるようになる人たちは神の子です。その神の子が現れるとき、わたしたちの世界は神の国になると、パウロは述べています。しかし、それはわたしたち人間が生きている限り、来たることはないでしょう。なぜなら、人間は神の国が来てもらっては困ると思っているからです。自分たちが積み上げたものがなくなっては困ると思っている。自分たちの国、自分たちの支配が永遠に続くようにしたいと思っている。だからこそ、世界は混沌に陥っている。このような人間こそいなくなった方が、他の被造物には良いことでしょう。しかし、人間はいなくならない。そして、神の国は地上には来ない。

ところが、イエスが十字架の上で一緒に死にゆく人に言うように、イエスが一緒にいるならば、そこは楽園、神の国なのです。イエスがおられることが重要なことです。イエスがおられるところが神の国です。たとえ、陰府であろうと神の国。地獄であろうと神の国。イエスがおられるところが神の国。今日のイエスの言葉はそのことを語っています。

では、イエスが共にいてくださるということは、イエスを信じていれば良いのでしょうか。そうなのですが、信じるということは、イエスを正しく見て、信頼することです。イエスと一緒に十字架で死にゆく人が、イエスを罵るもう一人に言う言葉がそれを語っています。「我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない。」と。つまり、自らの罪を認めて、このようになっているのは当然だと語っている心。イエスは「何も悪いことをしていない」と、イエスの真実な姿を捉えている心。この心こそが、イエスが共にいてくださる心であり、イエスを信じている心。神の国を見る心です。

わたしたち人間は、もう一人の犯罪人と同じように、誰かを罵って、憂さを晴らしたいと思うものです。ところが、イエスが何も悪いことをしていないと言う犯罪人は、イエスを正しく見ている。イエスを十字架に架けた人たちよりも、正しい目を持っている。このような人が、イエスが共にいると言ってくださる人、イエスと共に楽園にいる人です。

彼はこう言っています。「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」と。彼は、イエスに思い出していただくだけで良いと言っています。救ってくださいとは言いません。ただ、自分を思い出してくださいとしか言いません。この言葉こそが、イエスが一緒に死んでくださることを感謝している言葉でしょう。

悪いことをしていない人が、自分と一緒に死んでくださる。あり得ないことが起こっていると見ている。そのような人間は、自らを義しく見ている。死ぬべき存在であることを受け入れている。そして、イエスを義しく見ている。これが、洗礼において、わたしたちが至るところです。

パウロは言っています。「わたしたちは、キリストと共に死んだのなら、キリストと共に生きることにもなると信じます。」(ローマ6:8)と。キリストと共に死ぬということは、キリストがわたしと共に死んでくださるということです。キリストが共に死んでくださる死に入る。それが、洗礼です。そして、キリストと共に起こされる。わたしたちが洗礼を受けるということは、キリストと共に死ぬ罪人であることを受け入れることです。そのとき、キリストが共に生きてくださる。わたしたち一人ひとりは、洗礼において「あなたは、今日わたしと共にパラダイスにいる。」と言っていただいた存在なのです。このわたしと共に、キリストは生きてくださる。この恵みに導かれた一人ひとりであることを忘れないようにしましょう。

あなたが生きている世界は、イエスがおっしゃるように神の国です。あなたのただ中に神の国がある。神の子とされたわたしたちが生きていることそのものが神の国。この神の国を地上の世界に来たらせるということは、神の国をあるがままに見るということです。その目を開いてくださるのは神さまです。そして、地上に来たる神の国が、このわたしのところにも来るように、わたしの目を開いてくださいと祈るのが、主の祈りです。

わたしたちに与えられた信仰は、主の祈りで祈る世界を、わたしのところに来たらせるのです。あなたが神の国に生きるために、十字架を負ってくださったお方が、あなたと共に生きてくださる。この神の国が、あなたがたのただ中にある。あるものをあると見る目が開かれますように。あるものをないようにしてしまうわたしの罪が働かなくされますように。あるべきものがあるべきところにあることを喜ぶわたしでありますように。

聖霊降臨後最終主日の今日、わたしたちの一年を振り返り、わたしの一年を振り返り、罪深かった歩みを振り返りましょう。そして、来るべき新しい一年が、神さまのお働きに信頼して歩み始める一年でありますように。神さまの祝福を祈り求めましょう。

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