「変えられる心」

2025年12月21日(待降節第4主日)
マタイによる福音書1章18節-25節

今日の旧約聖書の日課イザヤ書では、アハズという王さまが神さまを試すことはしないと言っています。この王さまは、神さまに忠実に生きているので、神さまを試して、しるしを求めることはしないと答えています。自分は神さまに向かって、義しく生きていると言っているわけです。ところが、神さまは、自分の義しさにこだわる王さまに対して、しるしを与えると言います。そのしるしが「インマヌエル」だと言うのです。これは何を語っているのでしょうか。

福音書でもインマヌエルの誕生は神さまの与える「しるし」だということです。「しるし」というのは、本体があって、それが目に見えないために、見えるような「しるし」が与えられるということです。インマヌエルとは、ヘブライ語です。インマヌーが「わたしたちと共に」で、エルが「神」です。「神、わたしたちと共に」という名前になっています。

そのインマヌエルがイエス・キリストです。イエスの誕生は、「しるし」の誕生だということになります。今日のマタイによる福音書が語っているのは、見えているしるしが指し示す本体そのものがわたしたちを導く力だということです。しるしが指し示しているもの、そのものに目を注ぎなさいと、天使はヨセフに言ったのです。

旧約聖書のアハズという王さまは、ヨセフの最初の姿を表しています。ヨセフは、自分の義しさを守るために、マリアを追い出すことを決めていました。ところが、天使が現れて、その言葉を聞いたとき、ヨセフは最初の計画を変更しています。わたしたちがそれまで考えていた計画を変えるという場合、何が変わっているのでしょうか。表面的には、行動が変わるわけですが、実は心が変わっているわけです。もっと言えば、心が見ている世界が変わっているのです。ヨセフは、それまで自分の心で考えていた世界と違う世界を見せられたということです。違う世界があることを指し示された。それがインマヌエル、わたしたちと共にいる神の世界です。

最初ヨセフはこう考えています。マリアとは「ひそかに縁を切ろうと決心した」と。これは、見えているところで、上手くやっていくという思いでしょう。上手くやっていくために、マリアを追い払おうとしたということです。そのヨセフが心を変えられて、最後には「妻を迎え入れ」たと述べられています。この言葉は「受け入れた」という言葉です。

「追い払う」意志が、「受け入れる」意志に変わった。自分から遠ざけようとしていたヨセフが、自分の許に受け入れて、一緒に生きることにしたというわけです。どうしてなのでしょうか。ヨセフの心に何が起こったのか。

遠ざけようとする心、追い払おうとする心は、関わりを持たないようにするということです。反対に、受け入れる心は、関わりを持つというよりももっと積極的で、一緒に担うことを意味しています。ヨセフが、マリアと一緒に担う心に変えられたのは、天使が言った言葉が切っ掛けだったでしょう。「恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。」という天使の言葉です。ヨセフが恐れていることを天使は知っていた。他人の子を宿している女と結婚することを恐れていた。マリアの不貞を勘ぐって、それが公になることを恐れていた。彼が「義しい人」という評価を受けていたために、その評価を曇らせるようなことを遠ざけようとしたと考えることもできます。その心は、自分の義しさの立場を守ろうという心です。そのような場合に、わたしたちも誰かを遠ざけようとしたり、追い払おうとするものです。自分の立場を守るために、都合の悪いものを追い払う。これが、わたしたち人間が陥った、自分にとって良いことは受け入れるけれど、悪く働くことは受け入れないという罪の働きだと言えます。そのとき、わたしたちは自分のことしか考えていません。

しかし、天使の言葉を聞いたあとのヨセフは、マリアを受け入れるのです。マリアのことを考えて受け入れたのでしょうか。福音書が語っているのは、神の言葉、神の計画を受け入れたから、マリアを受け入れたということだと言えます。神の働きによって身ごもったマリアを受け入れるということは、神の働きを受け入れたということです。それは信仰なのです。

自分の義しさを守ろうとすることは、信仰の行為ではなく、人間的な行為です。天使の言葉を聞いて、ヨセフは自らの不信仰な心を変えられたと言えるでしょう。今まで、自分の世界しか見ていなかった人が、神の世界を見せられた。それゆえに、ヨセフは心を変えられた。神の働きの世界に入れられている自分とマリアを見るように変えられた。それが、インマヌエルの世界だったのです。

ヨセフは、自分の世界にマリアを受け入れるかどうかを考えていた。天使の言葉を聞いたとき、自分が神の世界に受け入れられていることを知った。マリアも神の世界に受け入れられていると知った。神の世界の中で、自分もマリアも神の働きを受けていることを知った。自分の世界から解放されて、神の世界に入れられたヨセフ。インマヌエルの世界に受け入れられている自分を知ったヨセフだったのです。

わたしたちが心を変えられるという出来事は、人間関係においては、人の言葉に左右されます。こっちの人の言葉を聞いて、「そうだそうだ。」と思っていたのに、別の人の言葉を聞いて、「そうだそうだ。」と思うと、そちらについていく。それは、自分に取って都合の良い言葉に従っているわけです。どこまで行っても、人間の世界に縛られているのです。ヨセフは、自分にとって都合の良い心に従っていたのに、天使の言葉を聞いて、都合が悪い方を選択したとも言えます。この選択に導いたのは、神の意志の世界に目が開かれたからです。

ということは、ヨセフの世界が変わったということです。自分にとって都合が悪いということを考える必要がない世界に開かれたということです。それは、都合の悪い方を選ぶということではなく、自分の都合を考える必要がない世界があると目覚めたということです。その世界は、神の意志の世界です。

ヨセフが最初に感じたことは、「これはまずいことになる」という感覚でしょう。つまり、感情です。この感情は、自分の家族が困ったことになるかも知れないというものです。家族を守るために、自分の義しさを守る。自分が行う追い出しは悪いことではないと、自分を説得することができる。このようなことは、誰でもやっています。ヨセフは、その心を捨てたのです。誰でもやっているから良いと正当化しようとする心を捨てた。神の意志の世界に入れられることで、捨てることができたわけです。誰もやっていないことを選択する心に変えられた。これがヨセフのうちに起こった神の働きです。

わたしたちも、誰でもやっているから良いと考えます。また、これまで誰もがそうやってきたから、正しいと考えます。これまでと何も変わらないということが良いと考えるものです。そして、自分は何も変わることなく、追い払われる人が生まれる。そのような行為が良いことだと言われる。果たして、そうなのでしょうか。

ヨセフが誰でもやっている通りに行動していたならば、イエスは生まれなかったでしょう。イエス、主は救いという名前の幼子は生まれなかった。従来通りではないことを受け入れたからこそ、主は救いという存在が生まれた。そのお方こそ、インマヌエルと呼ばれる。「わたしたちと共にいる神」インマヌエルは、ヨセフと共にいる神であり、マリアとも共にいる神なのです。生まれくる幼子が指し示す神の世界に入れられたヨセフ。これまで通りにやっていたならば、救いは生まれなかった。わたしたちが待ち望む救い主のお誕生は、わたしたちを違う世界に開いてくださる出来事なのです。これまで通りではなく、自分の都合の世界でもなく、神の意志の世界がやって来る。クリスマスの主があなたの世界を、わたしたちの世界へと変えてくださいますように。

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