2025年12月28日(降誕後第1主日)
マタイによる福音書2章13節-23節
マタイによる福音書は、旧約聖書の成就としてのイエス・キリストを伝えています。創世記の最後のヨセフと同じように、マリアの夫ヨセフもたびたび夢を見ています。夢を通して、神さまのご意志を受け取っているヨセフが描かれています。
「夢」という言葉は、ヘブライ語ではハロームと言いますが、ハロームは通常の「夢」のことを指しています。しかし、預言的な「夢」ということも表しています。預言者たちは、「夢」なのか「現実」なのか分からないような出来事を経験しています。特に、エゼキエルなどが見たものは、荒唐無稽な夢のような感じがします。神さまは、夢のようなイメージを通して、預言者に語りかけ、人々に告げるべき言葉を与えているのです。今日のヨセフも同じように、天使の顕現によって、言葉を与えられ、なすべきことを与えられています。ヨセフは、最初は人間的に考える人だったようです。しかし、彼の心が変えられるために、天使が遣わされたことを先週のみことばから聞きました。神の言葉を素直に受け取るヨセフに変えられたということです。
今日の福音書では、特に幼子を守るために、ヨセフに夢で告げられる神さまの言葉が記されています。しかし、幼子の守りの陰で、ヘロデに殺害される多くの幼子がいたとも記されています。神さまは、これらの幼子たちも守ってくれれば良いのにと思えます。それなのに、この幼子たちの殺害も神の言葉の実現だと記されているのです。これは、どういうことでしょうか。
引用されているエレミヤ書31章15節の言葉は、バビロン捕囚に際して語られた神の言葉です。このエレミヤ書31章は「新しい契約」という預言が述べられる箇所です。バビロン捕囚によって失われたこどもたちのために、イスラエルを象徴するラケルは泣き続けると述べられた後、こう言われるのです。「あなたの未来には希望がある、と主は言われる。息子たちは自分の国に帰って来る。」と。失われたと思っていたこどもたちが、自分の国に帰ってくるのだと預言されています。このこどもたちの帰還のために、イエスはヘロデの手から救い出され、こどもたちの未来を開くお方として、神によって立てられると述べられているのです。
この世にあって、権力を奮っている人々がいることで、多くの人たちのいのちが失われていく。この現実を希望へと変えるために、イエスは殺害から守られ、最終的には十字架の死を通して、こどもたちの帰還という希望が実現すると、福音書は語っているのです。
預言者エレミヤの「新しい契約」という預言には、このようなことが述べられています。救いというものは十把一絡げに行われることではなく、一人ひとりの心に神さまがご自身の律法を書き記すことによって実現すると。一人ひとりが救われるのは、心に記された神さまの言葉に従って生きるときなのです。そのとき、地上には神さまの国が現れるということです。ですから、先祖の罪を子孫が負うことはなく、一人ひとりが自ら負うべき罪を認め、向き合うときに救われる。そのために、イエスは十字架を負われる。
聖書を読んでいると、二千年前も現代も人間は変わっていないと思えます。同じことを繰り返しています。二千年経ったのだから、もう少し良くなっていても良いのではないかと思うでしょう。ところが、救いというものはひとりの人間が福音によって、罪から解放されることです。人類全体が一挙に救われるなどということはないのです。一人の人間が生まれて死ぬまでの期間は80年ほどの間です。人間は何も分からないままに生まれて、80年を過ごす。その中で、キリストに出会い、救いに与る。父や母が救われていたから、その救いを受け継いでいくわけではないのです。このわたしと神とが向き合い、義しい関係を生きる。それが救いです。二千年前であろうと現代であろうと、何の違いも無い一人の人間がいるのです。先祖の罪を負うことがないということは、先祖の救いも受け継ぐことはないということです。だからこそ、エレミヤによって語られた神の言葉は、一人ひとりの心に書き記される律法だと言われる。それが「新しい契約」なのです。
今日の福音書において、一人の人イエス・キリストが救われることによって、一人ひとりの救いが始まる。一人ひとりの救いは、最初に救われた幼子イエスから始まる。そのために、多くのこどもたちが殺害されるとしても、彼らもまた帰ってくる。神の懐に帰ってくる。この希望を実現するのが、イエス・キリストの十字架と復活です。ベツレヘムの幼子たちの出来事が語っているのは、一人の救いからすべては始まるということです。そのために、ヨセフには夢で神の言葉が告げられる。この夢の言葉を通して、ヨセフはイエスを守り導いてくださる神に用いられた。わたしたちもまた、このように用いられる。そのためには、わたしたち一人ひとりもまた、ヨセフのように神の言葉に素直に聞き、従うことが大事なことになるのです。
神の言葉は一人ひとりに語り掛ける言葉です。礼拝において聞く説教も、全員が同じ言葉を聞いているように思えるかも知れません。しかし、一人ひとりが自分への神の言葉として聞くとき、その人は神さまと「わたしとあなた」の関係に入っているのです。神の言葉を伝える職務を与えられている人間を見て、「こいつが何を偉そうに語っているのか。」と聞いているならば、その人は神の言葉を聞いてはいません。エレミヤの預言を聞いた人たちの中にも、自分への言葉として聞く人と、こんなやつの言う言葉など聞くものかと思っていた人たちとがいました。神の言葉は、すべての人に語られていますが、聞く耳のある人だけが聞くのです。
預言者イザヤが派遣されるときに、神さまから言われた言葉には、このように述べられています。「行け、この民に言うがよい。よく聞け、しかし理解するな。よく見よ、しかし悟るな、と。この民の心をかたくなにし、耳を鈍く、目を暗くせよ。目で見ることなく、耳で聞くことなく、その心で理解することなく、悔い改めていやされることのないために。」と。イエスもまた、このイザヤの言葉を引用した後、こうおっしゃっています。「あなたがたの目は見ているから幸いだ。あなたがたの耳は聞いているから幸いだ。」(マタイ13:16)と。聞く人は、神の祝福を受け取る人。だから、聞く。聞かない人は、神の祝福を受け取らない。だから、聞かない。聞く人の心には、神さまの言葉が記されているとも言えます。聞く人は、神の言葉によって、神さまの世界をそのままに見る目が開かれている。これが、エレミヤが預言した「新しい契約」なのです。
だとすれば、今イエスさまの言葉を聞いて、素直に受け入れているあなたの心には「新しい契約」が記されているのです。新しい契約が記された一人ひとりから、救いが始まっているのです。神の言葉を聞いているあなたは神の祝福によって救われています。聞いているあなたは、失われたと思ったベツレヘムのこどもたちと同じです。あなたのうちに、ベツレヘムのこどもたちが生きている。ベツレヘムのこどもたちは、遠い昔のこどもたちではなく、今を生きているあなたのうちに生きているのです。
この幸いを今日受け取りましょう。ベツレヘムの幼子たちの苦難から生まれたあなたの救い。苦難を負わされた幼子たちのことを、イエスは十字架の上まで担って行かれた。ヘロデに代表される人間の罪の結果を、救いに変えてくださった。十字架において、イエスと共に幼子たちの救いが実現している。今福音を聞いているあなたのうちに実現している。あなたの未来には希望があると、語り給うた神ヤーウェの言葉があなたを生かし、用いてくださいますように。

