2026年1月1日(新年聖餐礼拝)
マタイによる福音書25章31節-46節
わたしたちは毎日小さなことを繰り返しています。朝起きて、顔を洗って、着替えて、朝食を作って、いただく。それから、仕事に行く人もいれば、家庭で家事をこなす人もいる。仕事が大きなことかと言えば、そんなことはなくて、毎日同じような作業を繰り返している。
わたしたちが生きるということは小さなことの積み重ねです。取るに足りないと思われることを繰り返して生きているのがわたしなのです。だからこそ、もっと大きなことをしたいと願う。皆から褒められるような大きな成果を上げたいと願う。それがわたしたち人間の愚かな罪深い心です。
新しい年を迎えて、最初に読むみことばは裁きの言葉です。とても小さなことについて裁かれるというたとえです。イエスがおっしゃっている「わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人」とはどのような人なのでしょうか。「最も小さい者の一人」という言葉をわたしたちはどのような存在だと思っているでしょうか。喉が渇いている人。病気の人。旅の人。牢屋に入れられている人など、さまざまな人が出て来ます。「最も小さい」という言葉は、これ以上無いほど小さいという意味です。見捨てられても、誰も何とも思わないという意味です。そのような存在がたくさんいるのですが、その中のたった一人ということです。誰も何とも思わないような存在の中のさらに何とも思われないような一人のことです。みなさんが、気にもしないような存在に何かをした人と、何もしなかった人が分けられる。これが最後の審判だとイエスはおっしゃっています。
普通ならば、何かを分ける場合、目立つことをした人としなかった人に分けるでしょう。ところが、最後の審判においては、誰も気にしないような存在の中の一人に何をしたかしなかったかが問われると言われているのです。ですから、誰も気にしないようなとても小さなことが問われていることになります。
山羊と羊に分けられた人たちの誰も、何も覚えていません。しなかった人もした人も覚えていません。覚えていないようなことについて「あなたはしなかった」、「あなたはした」と言われても、覚えていませんとしか言えません。裁判であれば、覚えていないことであっても、誰かの証言があればそれは確定します。この証言をするのが、裁判官である「人の子」だと言われているのです。
人の子は、メシア、救い主のことですから、救い主は裁判官だというたとえです。しかも、裁判官が証人だというわけですから、「覚えていません」と答えても、「あなたがしなかったことをわたしが覚えていますので、あなたは有罪です。」、「あなたがしたことをわたしが覚えていますので、あなたは無罪です。」ということになるのです。覚えていないことを裁かれるというのは、困ります。
誰も記憶にないほどの小さなことが、最後の審判では問われるとすれば、わたしたちはとても小さなことに気をつけていなければならないと言われているように思えます。ところが、わたしたち人間は喉元過ぎれば熱さ忘れるものです。イエスのたとえは、小さなことに気をつけているということではないでしょう。むしろ、小さなことにその人の本質が現れるとおっしゃっているのです。すぐに忘れてしまうようなことに、その人の真実の姿が現れる。誰もが見捨てるようなことに心を向けることがその人の本質を表している。気をつけていることができないような、小さくて、気づかないことにおいて、その人自身がどこに立っているかが現れている。これが、イエスがたとえで語っておられることです。ということは、最後の審判に備えることができないということになります。気づかないのですから。そうであれば、普段の生き方が、そのまま最後の審判で裁かれるということになるわけです。
善い行いについて、マルティン・ルターはこのように言ったことがあります。「藁屑一本拾うことも善い行いである。」と。藁屑一本拾うことなど、そのとき拾おうと思って、拾っているだけでしょう。善い行いだとは誰も思いません。まして、皆に誉められるなどとも思いません。ただ、拾う。その人には、それが普段の生き方だということです。
普段の生き方など、わたしたちはあまり考えていません。小さなことに気をつけていようなどとは考えることはありません。むしろ、小さなことを気にしていたら、何もできないと思うものです。しかし、小さなことを気にしていれば、何もできないのでしょうか。そうではありません。小さなことに現れてしまう自分自身の生き方の大元。わたしがどこに立っていきているのかを大切にしているならば、何でもできるのです。すべて神に信頼しているからです。
イエスは、別の箇所で述べています。隠れたところで見ておられる神さまがいると。父なる神さまは、わたしたちの心の奥底にあるわたし自身の魂が、いかなる魂であるかを見ておられる。だから、特別なときだけ、良い格好をしても本質は見破られているということです。では、自分自身の本質的な部分をいつも見詰めている必要があるのでしょうか。そのように生きているならば、羊のように、小さな人たちに気づくのでしょうか。彼らを助けるように動くのでしょうか。いえ、羊のような人たちは普通のこととして行っているだけなのです。なぜか知らないけれど、そうしようと行動しただけです。大きいとか小さいとかに関係なく、神が起こしてくださった思いに従って生きている。ただ、それだけです。
信仰というものは、根源的なわたし自身、わたしの魂に関わる事柄です。この魂をどうすれば良いのか、と考える人は、どうにもできないでしょう。自分の魂がどのようであるかが分からないからです。自分の魂の状態を見ている人は、どうすれば良いのかを知っています。「これでは良くないのだ」と分かっていますから、その自分自身が良いと思える方向に生ようとするでしょう。
もともと、わたしは良い人間ではないのです。悪い人間です。神の言葉を聞かず、自分の都合で判断する人間です。義しいことを選ぶのではなく、人から良く見られることを選ぶ。一方、常識として通っている事柄に疑問を抱き、良く考えてみる人がいます。そのように生きている人は、小さなことを大切にします。大きな悪ではないから、大したことではないと思うならば、わたし自身を見失うことになります。このようなわたしであることを、いつも心に留めているならば、気をつけるでしょう。
しかし、それでもなお、小さな人たち、取るに足りない存在と見られている人たちのことを、気にかけるかと言えば、そうではありません。気にすることができないのが人間ですから、イエスのたとえのようになるわけです。大切なお方である王さまだと分かっていれば、わたしは水の一杯だけではなく、ワインも差し上げたことでしょうと、思うのです。しかし、分からなかった。それが最も小さな人たちの中のたった一人であれば、なおさら気がつかないままに切り捨てる。このような生き方は誰でもしていますから、わたしだけが悪いのではない。言ってくれれば、水の一杯も上げたのにと思う。
一方で、羊の側の人たちもすべての小さな人たちに心を向けているかと言えば、そうではないでしょう。自分がそのとき心を向けるように神によって促された人がそうする。だからこそ、羊の側の人たちもたくさんいるのです。それぞれに、起こされた思いに従っただけです。
わたしたちもまた、自分が誰にも気にも留めてもらえないとすれば、「ここにいる」と言いたくなります。「ここにいる」と声を上げても、ほとんどの人が見ようともしなかった。そのようなわたしに目を留めて、救ってくださったのはイエスさまです。このお方に目を留めていただいたからこそ、わたしは救われたのです。このことをわたしたちは今一度心に刻んでおきましょう。
新しい一年を過ごすに先立って、わたしの心の在り方を問うてくださるのは、神の言葉です。わたしでは気にも留めないことを見せてくださるのは神の言葉です。小さくて見えないことにわたしの心が現れると教えてくださるのが神の言葉です。
「今日こそ、主の御業の日。」詩篇118編のみことばをなごや希望教会の主題聖句としました。今日という日は、神さまが働いてくださる日です。この年の一日一日を主の御業の日として過ごしていきましょう。あなたのうちに働いてくださる神さまのお働きを素直に受け取って、生きる一人ひとりでありますように。
掛川菊川教会の新しい主題聖句もこのように考えています。「わたしは、今は一部しか知らなくとも、そのときには、はっきり知られているようにはっきり知ることになる。」(1コリント13:12)。神さまがすべてを知っておられると信頼して、それぞれにわたしを生きていくことができますように、共に祈りましょう。

