「小さなものに目を向けて」

2026年1月4日(顕現主日)
マタイによる福音書2章1節-12節

預言者ミカが預言した言葉が引用されていますが、ヘブライ語聖書でもギリシア語訳聖書でも「小さい者」となっています。マタイが引用したのは、彼の時代に意味を取ってギリシア語に訳されているものからの引用でしょう。小さなベツレヘムだけれど、イスラエルを治める者が出るから小さくはないと訳されています。

預言者ミカは、小さいところから出てくる指導者を預言しているだけです。この言葉に続いて、ミカはこのように預言しています。「ヤコブの残りの者は 多くの民のただ中にいて 主から降りる露のよう 草の上に降る雨のようだ。 彼らは人の力に望みをおかず 人の子らを頼りとしない。」(ミカ書‬ 5‬:6‬)と。‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬

残りの者というのは、露のようで、雨のようで、人々が気にも留めないような存在だけれど、確かに地を潤すという預言です。小さい者も残りの者も、同じように、人々から気にも留められない存在でありながら、神さまが与えてくださった命が続いていくために働いている。そのような存在を、神さまが残しているということです。小さいということは、軽く見られるけれど、大きな存在が倒れても、小さいがゆえに残る。そのように、神さまが残している存在がある。これが、ベツレヘムに生まれる幼子を預言していると、聖書を調べた律法学者たちはヘロデに伝えたのです。

ヘロデは自分が倒されてしまう預言だと理解したのでしょう。だからこそ、占星術の学者たちをひそかに呼び寄せて、場所を確認したら教えてくれと伝えた。幼子を殺害するためです。ヘロデは聖書の神の言葉を理解している。それが自分のことだと理解している。しかし、神の言葉を覆すことができると思っている。そこに人間の過ちが起こるのです。

わたしたち人間は、聖書の言葉、神の言葉を理解はしても、受け入れないということです。受け入れないので、覆すために努力する。従わないために努力する。この努力する力はその人の権力や地位や財産によって行われる。それらのものも、神さまが与えたものなのに、自分のために使う。これがこの世の支配者たちの在り方です。この世界に争いが絶えないのは、このような支配者たちが自分の世界を守ろうとするからです。ヘロデにしてみれば、幼子の誕生は自分の世界を危うくすることになる。それで、消してしまえば大丈夫だろうと考えた。

わたしたちも神さまの言葉が実現しないために懸命になることがあります。それは、自分が救われるために行われるものです。それが悪であるとは思わない。いえ、悪であろうとも、自分のためになら行なってしまう。他人が同じことを行ったときには、批判するにも関わらず、自分の場合は仕方ないと言い訳する。世の指導者たちは誰でもそう考える。そして、小さな者が殺害されてしまう。このような生き方が、わたしたち人間の生き方なのだということを、ヘロデが現しているのです。

小さな者は、取るに足りないのだから、誰も気にもしないだろうと思う。ところが、神さまは最も小さな者から救い主を起こす。誰も気にもしないところから救いが生まれる。これがクリスマスの幼子の誕生が語っていることです。

その救い主の星を見つけた占星術の学者たちは、贈り物を持って、イスラエルにやってきました。黄金、乳香、没薬は、葬儀に必要なものです。誕生する幼子の葬儀に必要なものを贈った。これは幼子の地上の人生の終わりのための贈り物。人生すべてを表す贈り物。死に行く存在であることを表している贈り物。これはとても重要な贈り物なのです。

この贈り物は高価な贈り物です。ですから、一般民衆にはできない贈り物が贈られたと考えるべきでしょう。それでもなお、死に行く人間を表す贈り物を贈るということは、不吉な贈り物のように思えます。この贈り物は、イエス・キリストの死を意味しています。死を通して、王として生きるということです。そのように考えてみれば、死を通ってもなお、王であるということになります。学者たちの贈り物は、十字架の死を通ってもなお王であるキリストを指し示しているのです。

今日、わたしたちが祝っている顕現主日というのは、現在のクリスマスのもっと前に祝われていたクリスマスです。東の方から来た学者たちが見出す王は、世界のために生まれる王だという意味で、クリスマスは祝われていたのです。クリスマスという言葉は、キリストのミサという意味だと言われています。キリストを礼拝することがクリスマスなのです。キリストを礼拝しないクリスマスはあり得ません。幼子の誕生を祝うということは、幼子がキリスト、救い主であることを受け入れて、礼拝するということなのです。幼子の前にひれ伏して祝う。これが本来のクリスマスです。

クリスマス・パーティがクリスマスではありません。ケーキを食べることがクリスマスではありません。贈り物を贈り合うことがクリスマスではありません。贈り物はキリストに献げるべきものです。もちろん、最初に贈り物を贈り合うようになったとき、思いがけない贈り物であるキリストの恵みを受け取った喜びを分かち合うために行われたでしょう。それが、次第に習慣になり、みんなに贈り物をするようになっていった。本来ならば、最も小さな存在のために贈ることがクリスマスの意味を表すと言えます。

最も小さな者から救いが生まれる。最も小さな者が救いそのものである。この喜びが最も小さな存在に与えられる。それは、最も小さな者自身が自分自身を通してこの世に救いが始まるということを知ることでもあります。最も小さな存在が救いであることを伝えるのがクリスマスです。クリスマスを境として、見過ごされていた小さな者たちに目が向けられる。小さな者たちが自分自身の価値に目を向ける。大きなものを求めないように生きる。そこに神さまの救いの働きが始まっていることに目を向ける。最も小さな者たちが神さまの恵みそのもの。パウロが聞いたキリストの言葉のように、弱さの中で神の可能とする力は完成しているのです。パウロという名前は「小さなもの」を表しています。もともとはサウロという名前でしたが、キリストに出会ってから、彼はパウロと自らを呼ぶようになったのです。イスラエルの王サウルにちなんだ名前から、小さなものを意味するパウロとなった。先に見たように、弱さの中で完成している神の力を知ったからです。小さな者において、神の可能とする力は十分に満たされているのです。これがクリスマス、顕現主日にわたしたちが心に刻むべき事柄だと言えます。

クリスマス・シーズンは今日で終わります。教会の歩みは、これからの一年をクリスマスの心で過ごしていく歩みです。最も小さな者であることを喜ぶ一年でありますように。最も小さな者と共に喜ぶ一年でありますように。心新たに歩み続けて行きましょう。

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