2026年1月11日(主の洗礼日)
マタイによる福音書3章13節-17節
神さまの意志に従うということは、自分にとって都合の悪いことでも従うということです。この世で義しくないと思えることも神の意志として受け入れる。これが今日イエスが義しいこととおっしゃっていることなのです。そのお姿を神さまが見て、あなたは義しいわたしの子だとおっしゃった。これが今日の福音の重要な点です。
「正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです。」とイエスはヨハネに言っています。イエスは、ヨハネに向かって、神の意志に一緒に従おうとおっしゃっているのです。この言葉を聞いて、「ヨハネはイエスの言われるとおりにした。」と訳されていますが、原文では「彼は手放した、彼(イエス)を」となっています。ヨハネはそれまで、イエスをしっかり握っていた。イエスの行動を妨げていた。「思いとどまらせよう」ということは、イエスの意志を実行させないようにすること、妨げることです。ヨハネは、実は自分が傲慢だったと教えられて、イエスを手放したということです。自分が主ではなく、イエスが主であると認める。それがすべての義を満たすことだったのです。
人間が義しいと考えることを推し進めることによって、イエスを十字架に架けることになってしまった。しかし、その人間的な行為をイエスは引き受ける。ヨハネから洗礼を受けることも、同じです。フィリピの信徒への手紙2章6節に記されているように、キリストは神のご意志に従って、神であることを手放して、人間と同じものとなって、洗礼を受け、十字架の死を引き受けた。ここに、イエスの神の子としての姿が現れているのです。それゆえに、天からの声がイエスの義しさを宣言したのです。「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」と。
天からの声は、原文ではこうです。「この者は、わたしの息子、愛する者。この者のうちで、わたしは良いと考えた。」と。先にイエスがおっしゃった「義しいこと」とは神さまが「良いと考える」ことなのです。洗礼を受けたイエスを神さまが「良いと考えた」ということです。それは「イエスは義しい」と宣言したということです。神さまが義しいと宣言する天からの「声」に包まれたイエス。それがイエスの洗礼でした。ですから、イエスの洗礼を通して、わたしたちは義しい神の子とされる洗礼を受けるのです。その義しさとは、神さまが主体である世界に生きるという義しさです。
イエスは、神の前におけるすべての義しさを考えています。神さまの前に義しく生きる、とは何かを考えておられる。このイエスの生き方が十字架を引き受ける生き方です。イエスに従う者たちにしてみれば、自分たちが救い主だと信じて従って来た方が十字架で殺されることは、不当なことだと思える。義しいとは言えないと思える。しかし、ゲッセマネの祈りで、イエスはこう祈っておられる。「父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願いどおりではなく、御心のままに。」と。イエスは、ご自分の願いとは違っていても、神さまのご意志に従いますと祈っているのです。最初からイエスは、この祈りのように生きておられた。ヨハネから洗礼を受けるときにも、神さまのご意志に従って、受けた。それが、すべての義を満たすことだとイエスはおっしゃっている。「正しいことをすべて行う」と訳されている言葉は、「すべての義を満たす」という言葉です。すべての義というのは、神さまの義しさのことですから、神さまの義しさに従うことを、イエスはヨハネに求めたということです。一緒に従おうと。
わたしたちは、神さまがこの世界を支配しておられると信じています。それでも、神さまのご支配に服しているかと言えば、むしろ洗礼者ヨハネのように、神さまのご意志を妨げているということがあるのです。神さまのご意志に反したことが起こっている、とわたしが判断するとき、わたしは神さまの側にいると思っています。ところが、わたしは神さまのご意志に反したところに立っているというわけです。これが、わたしたち人間がこの世界や他者を自分で裁いてしまうという罪の現実なのです。
では、誰かが殺されるようなことが起こっているときに、その出来事が起こらないように対処するということをしなくて良いのでしょうか。「これも神さまのご意志なのだから、その人が殺されても仕方ない」と端で見ていれば良いのでしょうか。そんなことはないのです。ヨハネの場合は、自分に対する神さまのご意志に従わないということを指摘されているわけです。他者を殺害しようとしている人を見て、「殺してはならない」という十戒を破らないように妨げることは必要なことです。ところが、それを理由にして、自分の権益を守ることや自分が利益を得ようとすることの言い訳にするということも起こります。どこかの大統領がしているようなことですが。戦争というものは、殺害を妨げるために戦争するという矛盾したことを行っているわけです。他者が十戒を守るように妨げるならば、まずは自分が十戒を守るように自分を妨げることが必要でしょう。十戒を破っているのに、自分が義しいと思ってしまう。いえ、自分は義しいと自分に言い聞かせてしまうのです。神さまの意志は、自分が従うものであって、他者を従わせることではないのです。他者は他者で、自分で従うようになる必要があるのです。ヨハネの場合も、自分が義しいと考えることにイエスを従わせようと懸命になって、自分が神の意志に従うということを忘れていたとも言えます。
イエスは、自分を妨げるヨハネを諭して、一緒に神さまの義を満たすように生きようと勧めたのです。これが、イエスと共に受ける洗礼の始まりだと言えるでしょう。
使徒パウロが言うように、キリストと共に死んだのなら、キリストと共に生きることになるのです。わたしたちが受けた洗礼は、キリストがヨハネに言った言葉なのです。「すべての義を満たすために、それはわたしたちに適切なこととして存在している」というキリストの言葉が、わたしたちの洗礼において行われているのです。キリストは、ヨハネと共にわたしたち一人ひとりに向かってもおっしゃっているのです。「わたしは神さまのご意志に従って、あなたと一緒に死ぬ。あなたもわたしと一緒に死ぬことを通して、神さまの義しい支配に従って生きるようになるのです。」と。洗礼を通して、わたしたち一人ひとりは、キリストが一緒に死んでくださった存在として、神さまによって新たに生かされて行くのです。
今日の洗礼者ヨハネとの対話を通してキリストはあなたに語っておられる。「あなたは一人で死んだのではない。わたしが一緒に死んだ存在なのだ。」と。わたしたちの洗礼は、神の愛する御子イエス・キリストのいのちに入れられることなのです。キリストと共に死んで、キリストと共に生きることなのです。
キリストは神のご意志に従って、神であることを手放して、洗礼を受け、十字架の死を引き受けた。このキリストによって、わたしたちにも神のご意志に従って生きる道が開かれたのです。わたしの力で神の意志に従うのではありません。わたしの力は、神の意志を妨げるものであることを心に刻んでおきましょう。そのようなわたしであろうとも、わたしと共に死んでくださったお方が、わたしを神のものとして生かしてくださるのです。これが、キリスト者の祝福であり、キリスト者の喜びなのです。この恵みに神によって導き入れられた幸いを感謝して、新しい日々を生きていきましょう。

