2026年1月18日(顕現後第2主日)
ヨハネによる福音書1章29節-42節
わたしたち人間は、この世に起こる出来事に意味を求めるものです。何か意味があるのか。どうしてこんなことになったのか。誰がこんなことをしたのか。すべてに意味があると思いたい。しかし、コヘレトが言うように、「神はすべてを時宜にかなうように造り、また、永遠を思う心を人に与えられる。それでもなお、神のなさる業を始めから終りまで見極めることは許されていない。」のです。ただ、ときがあるだけ。ときが来て、すべては起こる。それが、神の意志に従うことであろうと、神の意志に従わないことであろうと、ときが来ただけ。わたしたちには分からない神の時が来ただけ。
誰かに出会うことにも、時がある。分かれるときにも、時がある。わたしたちは出会った相手とどうして出会ったのか、どうして気が合ったのかについては何も分かりません。出会って、この人は信頼できると思っていた人から、引き離されることも起こります。どちらにしても、神さまの御手の中にある出来事です。
今日の聖書で「出会った」と述べられている言葉は、ユーリスコーというギリシア語です。この言葉は「発見する」という意味の言葉ですから、初めての人と意気投合したことを発見したということでしょう。この発見は、偶然に見出すことを表していますので、自分で発見したわけではなく、何かが働いて発見することになったと言えます。その何かとは、神の働きなのです。
イエスに出会った後、アンデレは兄のシモンに出会った。いつも見ているシモンなのにどうして出会うのか。神さまがアンデレの目を開いて、兄のシモンを見せたということです。それで、アンデレはシモンに言うのです。「わたしはメシアに出会った」と。アンデレは、シモンなら自分が言うことを受け入れるに違いないと思ったのです。何故か知らないけれど、そう思って、シモンに伝えた。アンデレは、神さまが見せてくださったことを素直に受け入れた。シモンも受け入れた。わたしたちは神さまの導きによって、救い主、メシアに出会わせていただいた存在、また伝えるべき人に出会わせていただいた存在だということです。
このアンデレが「メシアを発見した」のですが、彼らはどのようにして、イエスをメシアとして発見したのでしょうか。それは、イエスが「どこに留まっているか」を見たからです。アンデレは、イエスに「どこに泊まっていますか」と聞いたと、訳されています。宿泊場所を聞いたように訳されているのですが、「泊まる」と訳されている言葉は、「留まる」という言葉です。この言葉は、ヨハネ福音書では「ぶどうの木に留まっていなさい」という言葉に出て来ます。ぶどうの木に留まる枝は、ぶどうの木から養分を受けて、生きています。そのような意味で、イエスが何から養分を受けて生きているのかを、アンデレは確認したのでしょう。そして、イエスは、神から養分を受けて生きているお方、神から遣わされたメシアだと発見したのでしょう。神さまの働きによって、アンデレはイエスをメシアとして見る目が開かれたと言えます。
このような出会いは、わたしたち人間が求めて起こるようなものではありません。もちろん、アンデレはイエスが留まっているところ、養分を受け取って生きているところを知りたいと思ったのですが、その思いを起こさせたのは神さまでした。そして、神さまが、アンデレに発見させたのです。
さらに、アンデレがシモン・ペトロを発見して、イエスの許に連れてきた。そして、イエスはシモンのことを「ケファ」と呼ぶとおっしゃった。このイエスの命名は、シモンの本質を発見してくださって、名前を付けたものでした。ヘブライ語の「ケファ」は「岩」という意味ですが、ギリシア語では「ペトロ」と言います。ただし、ギリシア語の「ペトロ」は「岩」ではなく「小石」のことです。「岩」は「ペトラ」というギリシア語で女性名詞です。シモンは男性ですからギリシア語では男性名詞の「ペトロ」小石と呼ばれたのですが、ここではヘブライ語で「岩」を意味する「ケファ」と呼ばれているのです。ペトロは「小石」だけれどケファ「岩」のようにどっしりとした存在でもあるということでしょう。反面、小石であれば、コロコロ転がって、揺れ動いてしまう。ペトロは揺れ動く人でもありましたが、大岩のように動じない面もありました。この両面を持った存在として、シモンはペトロでありケファなのです。わたしたち人間は、両面を持っています。どちらが良いか悪いかということではなく、どちらもわたしの両面なのです。その本当のシモンの姿をイエスは発見してくださったのです。
シモン自身は自分がどのような存在なのか、分からなかったことでしょう。どう生きたら良いのかを探していたかも知れません。そのようなシモンの本当の姿がペトロという小石であり、ケファという岩だったのです。そして、両面を持っている存在として認めてくださったのがイエスなのです。シモンにしても、この後に出てくるナタナエルにしても、本当の姿を発見してもらった。そして、引き出してもらった。それが、イエスが名付けてくださった呼び名だったのです。
彼らと同じように、わたしたちキリスト者は、本当の姿をイエスに発見してもらった存在なのです。コロコロ変わってしまう人間かも知れないけれど、ときにどっしりと神さまに信頼している人。よく勉強して、聖書オタクのようだけれど、みことばに従っている人。神さまの言葉に従って、自分を顧みている人。弱いけれど、他の人が見ることができない神さまの世界を見ている人。大きいことをするのではなく、小さなことをこつこつと行っていく人。神さまに従うと言っても、人それぞれ。本当のその人を生きることができるようにされた一人ひとりがキリスト者なのです。本当のわたしを生きるということができるのは、イエスご自身が留まっておられるお方の許に同じように留まっているからです。神さまによって目を開かれて、イエスと同じ神さまの世界を見ている人。そのような人が、神さまに発見されて、神さまの世界を発見させられる人。キリスト者とはそのような人たちなのです。
アンデレともう一人の弟子に、イエスはおっしゃっています。「来なさい。そうすれば分かる」と。原文では「来なさい。そして、見るであろう。」です。イエスが「来なさい」とおっしゃるので、ついていく。そして「見るであろう」とおっしゃるように見る。これが、キリスト者なのです。イエスが見せてくださるように見る。わたしたちが世界をそのように見るならば、わたしの都合で見ることはないでしょう。神さまが起こしておられる出来事を素直に見ることでしょう。そのように生きているならば、イエスが養分を受けて生きているお方である神さまの許に留まることができるのです。そのとき、わたしたちは、本当の自分を生きていくことができます。神さまが造ってくださったわたしを生きていくことができます。自分でこうありたいと思う自分ではなく、神さまが造った自分を生きる。神さまがこのように生きなさいと造られていたわたしを生きていく。これがキリスト者として生きることなのです。
アンデレもシモンも、そして、ナタナエルやフィリポも、皆本当の自分を生きるようにしていただいた。あなたもそうなのです。本当のあなたを生きるために、メシア、救い主によって発見されたあなたなのです。この恵みを素直に受け入れ、イエスに従って生きて行きましょう。神の言葉、ロゴスであるイエスが、すべてのものをお創りになったのです。神の言葉がわたしたちキリスト者の世界を毎日新しく創造してくださっている。この神の世界の中で、今日、神さまのお働きが行われていると信頼して、歩んで行きましょう。

