「天における報い」

2026年2月1日(顕現後第4主日)
マタイによる福音書5章1節-12節

ミカという預言者の言葉には、神さまの義しさを知るようにと語られています。「主の恵みの御業」と訳されていますが、「主の義」です。義しさとは何かと言えば、「義しい裁き」、「誠実さを愛すること」、「へりくだって主と共に歩むこと」と最後に述べられています。この神さまの義しさを知ることから、始めなさい、自分が神さまの義しさに従っていないことを知りなさいとミカは神の言葉を聞いたのです。その義しくない生き方は、自分が褒められることを求める姿に現れます。反対に、皆から蔑まれて、哀れだと見られるのはとてもイヤなものです。ですから、他者を攻撃して自分を大きく見せようとします。

今日の福音書で、イエスが「幸いな者たち」と呼ぶ神さまの祝福を受けている人たちは、皆から蔑まれ、哀れだと思われている人たちです。そのような人たちだからこそ、哀れに思って、励まして上げようと「あなたがたは祝福されている」とイエスはおっしゃったのでしょうか。イエスに「祝福されている」と言われたとしても、彼らの貧しさや悲しみは消えることはありません。すでに起こっていることは消すことはできないのです。事実は事実です。それを無かったことにすることはできません。イエスは、彼らの貧しさ、悲しさ、苦しさがこの世で、無かったことになるとは言っていません。無くなってしまうとも言っていません。最後には、預言者と同じ迫害に遭うとまで言うのです。どうして、それが祝福されていることなのかと思ってしまいます。天における報いと言われているので、死んだ後の報いをイエスは約束してくださったのでしょうか。それでは、単なる慰めでしかないと思えてしまいます。

この「天における報い」という言葉で使われている「天」という言葉が表しているのは、「天全体において」という意味です。「天の国」というのもこの意味で、天全体を支配しておられる神さまのご支配を表している言葉です。

神さまの諸々の支配の中で、報いがある。ということは、この報いは死んだ後の報いであって、この地上における報いだとは思えません。地上においては、迫害され、殺されてしまうとしても、死んだ後の天において、報いがある。そうであれば、やはりこの世では哀れな人たちということになるでしょう。

確かに、迫害された預言者たちは人々から哀れな人たちと見られていたのです。「余計なことを言わなければ、あんな目に遭わなくても良かったのに」とも思われたのでしょう。しかし、預言者の言葉を聞かなかった人たちは、バビロン捕囚において、捕らわれてしまいました。預言者たちの言葉は残ったけれど、捕らわれた指導者たちの言葉は残っていません。結局、残るのは神のご意志に従った義しい言葉。神の意志を伝えた言葉なのです。人間の自己肯定の言葉は残らない。

そうではあっても、この世で認められない悲しみを抱えて生きることは耐えられないと思うものです。認めてもらうために、神の義しさを捨てて、人間が認めてくれるようなことに賛同する。それで、いっとき仲間に入れてもらえることもある。しかし、わたしたちの心は、それで安定するかと言えば、より不安になるのです。自分が、自分の信じるお方の意志に反して生きていて良いのだろうかと不安になるのです。義しいことを義しいとしなかったことに不安になる。不安というよりも、「これで良いはずがない」と思うのです。自分自身に嘘をついていることに、居心地の悪さを感じてしまう。むしろ、神さまの言葉によって、自分の罪を指摘していただいた方が安心するものです。

厳しい言葉を語る人を、人は嫌いますが、厳しい言葉が自分を見直す切っ掛けになるものです。そうして、わたしは自分を見詰めることができる。厳しい言葉の方が、愛の言葉であるとも言えます。優しい言葉、認めてくれる言葉は、わたしをいっとき安心させてくれるとしても、再び不安が押し寄せてくる。人間に認められても、不安に陥る。わたしの魂が納得していないからです。

神の言葉の厳しさは、わたしの魂に響く。だから、イエスは言うのです。「心の貧しい人々は幸い」と。この「心の」と訳されている言葉は、「霊において」という言葉です。つまり、霊的な貧しさを生きている人は、神の祝福を受けている人だという意味です。神さまが、あなたに霊的に貧しくなるよう働いておられるから、神さまの祝福の下にあると、イエスはおっしゃっているのです。この霊的貧しさとは、義のために迫害される人とも通じています。だから、どちらの祝福にもこう述べられています。「天の国はその人たちのものである。」と。神さまの義しさがこの地上に実現されるように求めている人は、霊的貧しさ、霊的欠乏を感じている人。義のために迫害される苦難を引き受けている人なのです。

そのような人は、人間から認められることでは安心できない。神さまから厳しい言葉を聞かされて、自分の過ちを認めることによって、平安を得る。神さまは義しいお方だと安心する。自分が義しくないということだけではなく、人間は皆義しくないということを神さまが語ってくださる。義しいのは神さまのみだと知ることによって、平安を得る。人間の間には、義しさはないと知ることによって、平安を得る。これが霊的な貧しさを生きることです。だからこそ、「天の国はその人たちのものである」と言われているのです。そうであれば、その人たちの報いは「天の国」だということになります。天全体における報いは、神さまの義しい支配である「天の国」なのです。

この「天の国」が与えられていることで、地上のこの世にあっては迫害があろうと、落胆することなく、天の国に生きることができる。それこそが祝福なのです。この世で認められなくても、天の国に生かされていることを喜ぶことができる。それが神さまの祝福なのです。この地上で幸いと言われる状態からはほど遠い。それでも、幸いだと生きていく。そのような人は、地上のいのちが破壊されたとしても、神のうちにわたしは生きていると信頼することができる。それがキリストの十字架が語っている十字架の言葉です。

いっときの安心を求めて、地上の支配者に迎合する人。認めてもらうために、自分に嘘をついて、地上の仲間に入る人たち。厳しさは悪だと思い込む人たち。愛は、優しさだと思い込む人たち。このような人たちは、神の義しさを知らない。求めてもいない。求めているのは、自分が肯定されることだけ。自分が満足することだけ。自分が認められて、周りを動かすことができるようになることだけ。

神さまの義しい支配を信頼している人は、自分が神さまに背いていたことを認めて、神さまの義しい支配に入れられていることを感謝する。戒められ、悔い改めるように導かれていることを感謝する。神さまの厳しさが愛であることを知る。神の愛の厳しさが、十字架の愛であることを知る。苦難を負ったキリストに従う厳しさの中に、神の平安があることを知る。このように生きることが、祝福された者としてのキリスト者の生なのです。

自らの罪深さを知る者こそが、神さまの義しい支配、天の国という報いを受けるのです。自分が神さまの義しい支配を求めてはいても、自分もなおそのご支配に服していないことを認めている人。その人は、自分では到達できないことを、神さまの力に委ねる。それが、霊的貧しさを生きる人。悲しみつつも、神の前に自らを委ねている人。柔和に、神さまのご支配を受け入れている人。すべてを神さまに委ねている人。そのような人が、イエスが言う「祝福されている者」なのです。

あなたが、自らの霊的な貧しさの中で、神に祈り、神の前にひれ伏し、神のご支配に信頼しているならば、あなたは祝福されている。神の義しさが、あなたを包み、報いとして、あなたは天の国に生きることができる。この地上にあって生きることができる。神さまは、害するものをあなたに与えることはない。すべてのことが天における報いなのです。

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