2026年3月8日(四旬節第3主日)
ヨハネによる福音書4章5節-42節
真実とは、嘘偽りのないもの、隠すことのないもの。しかし、ある人には都合の悪い真実があります。それゆえに、真実を覆い隠し、自分が批判されないように取り繕う。それでも、真実がなくなることはありません。他人の目、人間の目から隠したとしても、すべてをご存知のお方には隠れなきこと。それが真実であり、真理です。人間という存在は、真理を受け入れるのか、拒否するのか、どちらかです。受け入れて、同時に拒否することはできません。そうであれば、真理、真実とは、わたしが何を土台にして生きているかを見せるものだと言えます。つまり、受け入れている存在は真理と同じ土台に立っているのです。反対に、拒否する存在は真理とは違う土台に立っているのです。
ヨハネによる福音書において、真理はイエス・キリストそのものです。イエス・キリストは真理の言葉を語るお方。真理の言葉、ロゴスそのものがイエス・キリストです。このお方の言葉によって、その人が立っているところが明らかになる。今日の福音書で行われているサマリアの女との対話においてもそうです。サマリアの女は、イエスと話し合うことによって、自分そのものを受け入れるところへと導かれています。イエスが、「行って、あなたの夫をここに呼んで来なさい」と言われると、女は答えて、「わたしには夫はいません」と言ったと述べられています。この女の応答に対して、「『夫はいません』とは、まさにそのとおりだ。」とイエスはおっしゃっています。イエスとの対話によって、女は隠していた真実を認めることになりました。そして、イエスは「あなたには五人の夫がいたが、今連れ添っているのは夫ではない。あなたは、ありのままを言ったわけだ。」とおっしゃっています。「ありのまま」とは「真実に」という意味の言葉です。イエスとの対話によって、女は真実を言うことになった。隠していたことを明らかにすることになった。イエスの言葉は、真理を真理とする言葉。真理を明らかにする言葉なのです。
それゆえに、サマリアの女が町に戻って、イエスのことを伝えた後、町の人たちはイエスを町に迎えて、イエスの言葉を聞いて、こう言っています。「わたしたちが信じるのは、もうあなたが話してくれたからではない。わたしたちは自分で聞いて、この方が本当に世の救い主であると分かったからです。」と。ということは、イエスの言葉が彼らを信じる者にしたということです。これが真理である言葉、ロゴスの力です。
そう考えてみると、真理とは真理を明らかにするだけではなく、真理を信じる者を創造するのです。真理のロゴスは創造する言葉。だからこそ、ヨハネによる福音書の初めに、こう言われています。「万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。」と。真理の言葉が創造の言葉であると述べられています。それゆえに、真理であるイエス・キリストがすべての根源なのです。
真実、真理は、創造だけではなく、創造された存在が真実に生きるようにする言葉でもあります。言葉によって創造された存在を真理に結びつけるのが真理の言葉です。しかし、誰でもそうなるのでしょうか。ヨハネによる福音書では、イエスの言葉によって信じる心を起こされる人たちと、イエスを殺害する心を起こされる人たちが出てきます。どうして、そうなってしまうのでしょうか。
すべての人が真理の言葉であるロゴス、イエス・キリストによって創造されたのであれば、すべての人がイエスの言葉によって真実に生きるようにされているはずではないかと思えます。しかし、そうなる人とそうならない人に分けられる。その分かれ目はどこにあるのでしょうか。真理の言葉が語られたとき、受け入れるか、受け入れないかによって分けられるのです。
そうだとしても、神さまはどうして分けられるようにしたのでしょうか。すべての人が信じるように創ってくれていれば良かったのにと思います。すべての人が自動的に信じるようになっているとすれば、ただのロボットのようになってしまいます。それでは、人間とは言えません。わたしたちが人間であるとはどういうことなのか。真理を受け入れる人と、受け入れない人の違いが、どうして起こるのか。これを考える必要があります。
人間は、何事かを受け入れる場合に、自分の都合で受け入れるかどうかを決めます。この決断は、自分の都合に左右されます。ところが、自分の都合を脇において、単純に受け入れるだけの人もいます。受け入れるだけの人は、自分に働きかけてきたお方の働きを判断しないとも言えます。素直に従うのです。ところが、自分が判断して決めると考えている人は、素直に従うことはありません。まずは、検証してみて、確かだと分かれば受け入れる、と考える。自分の判断を優先している。自分の判断を絶対化している。このような人は、イエスの言葉ロゴスを素直に聞くことはありません。先週のニコデモは自分の判断を離れることができなかった。それで、いつの間にか消えているのです。しかし、イエスの十字架の死のあとで、墓に葬るために現れています。もちろん、その前にもイエスを弁護する言葉を皆の前で語っています。ニコデモは次第にイエスの言葉ロゴスによって変えられていったのでしょう。
イエスの言葉ロゴスを素直に聞くということは、判断しないというよりも、その言葉の中にまず入ってみるということです。素直に聞かない人は、その言葉の中に入る前に、言葉の外側で判断します。聞いた言葉が自分よりも下にあると考えているわけです。判断の主体は自分であると考えている。ここに、人間の罪が働いています。
このように言われると、素直に入ってみるとはどういうことなのかと考える人もいるでしょう。考えるよりも、入ってみて、経験してみることが大事なことなのです。経験を通して、真理に触れることができるのです。誰でも、やってみて判断するということが面倒なので、やる前に判断する。そうすると、真実には触れないままに判断することになります。これは、自分で自分を分けているのです。真理と自分とを分けているのです。入ってみると、抜けられなくなってしまうのではないかと思うのかもしれませんが、経験しなければ、何も分からないのです。これが真理を生きることにつながるのです。
ルターはこのような言葉を残しています。「人は経験し積み重ねなければ何も学べないゆえ、わたしの試練によってわたしは学んだのである。実践がなければ学べないからである。」と。経験し、積み重ねて、学ぶ。しかも試練によって学ぶと言っています。試練が学ぶ機会となるということです。試練を受け入れて、経験し、学ぶ。言葉だけ聞いて、経験もせず、試練の中で考えることなく、積み重ねもしないならば、何も学べない。そして、真実を見ることはできない。知ったことを使ってみてはじめて、人は学び、真理を見ることができるのです。
そのような意味で、町の人たちは女の言葉を聞いて、女に真理を現すように働いたお方の言葉を直接聞いてみたいと、イエスを迎え入れたのです。彼らは、学ぶ姿勢を持っている人たちでしょう。反対に、イエスを殺害する人たちは、イエスの言葉から学ぶ姿勢はなく、自分たちが判断して、イエスの言葉が義しいかどうかを決めようとした。そして、間違った判断をくだしてしまった。経験を拒否し、試練を拒否する人間はなんと愚かなことでしょうか。
みなさんは、毎週キリストの説教を聞いています。聞くだけで、忘れるのではなく、聞いたことを実践してみて、経験しているならば、あなたは真理の言葉の弟子とされています。これは神さまが語る言葉に素直に従う人だけに与えられる真理そのものです。イエスの言葉はあなたが真理を生きるようにしてくださる真理そのものです。わたしが真実を見ること、受け入れること、経験することができるように働いてくださるイエスの言葉の中に素直に入って見るとき、わたしはイエスと共に真理を生きることができるのです。それが「霊と真理をもって父を礼拝する」ということです。あなたがたの礼拝が、霊のうちに守られ、真理のうちに入るものとなりますように、十字架のイエスを見上げながら歩み続けましょう。

