2026年3月22日(四旬節第5主日)
ヨハネによる福音書11章1節-45節
捕らわれているところから外へと出て行くのが復活です。復活が捕らわれからの解放であるならば、信仰も捕らわれからの解放でしょう。信仰は自分が獲得するものではありません。神がわたしに与えてくださるのが信仰です。復活もわたしが獲得できるわけではないのです。神がわたしを起こしてくださる出来事が復活です。そのためには、自分が死ななければなりません。今日の福音書でトマスが言うように「わたしたちも行って、一緒に死のうではないか」ということです。
イエスと一緒に死ぬという出来事は、使徒パウロが洗礼について述べている言葉にあります。「わたしたちは、キリストと共に死んだのなら、キリストと共に生きることにもなると信じます。」(ローマ6:8)とパウロは述べています。トマスはそこまで理解していたわけではなく、ただイエスに従うことをこのように表現したのでしょう。しかし、このトマスの言葉には、キリストと共に死ぬことが述べられています。その先に、キリストと共に生きる復活があることまでは知らなくとも、トマスが言うようにイエスに従う信仰の在り方は、キリストと共に死ぬことでしょう。しかし、主体はキリストです。キリストがわたしと共に死んでくださるのです。
そう考えてみれば、復活とはキリストが共に死んでくださることを通して、わたしが起こされることです。それはまた、わたしが捕らわれているところからキリストが解放してくださることでもあるのです。イエスは墓に葬られているラザロに声をかけています。「ラザロ、出てきなさい」と。「ラザロ、来なさい、外へ」が原文です。イエスは、ラザロを閉じ込めている墓から「外へ来なさい」とおっしゃったのです。
このイエスの言葉に素直に従ったラザロは墓から出てきて、復活を生きることになったのです。この出来事が何を語っているのかは明白です。人間たちが閉じ込めていたところからの解放が復活のいのちだということです。
わたしたち人間は自分の力の限界を知っています。その限界を乗り越えようと躍起になって、他者のいのちを奪い、他者の領域を奪い、他者の資源を奪う。こうして、わたしたちは他者の死を通して、生きようとしているのです。自分の死を通して生きるのではなく、他者の死を通して生きる。これがわたしたち人間の悪、罪の現れです。カインがアベルを殺害したことと同じです。この社会的な罪の現れに縛られていたのが、ラザロなのです。
人間たちの奪い合う価値観に縛られていたところから解放すること。それが、イエスのラザロの呼び出しです。「来なさい、外へ」とイエスが言う言葉に従うことで、ラザロは復活した。これは、イエスの言葉がラザロを生かしたということです。イエスの言葉ロゴスがラザロを呼び出した。イエスの言葉に従うラザロは、墓の中でイエスの声を聞いた。ということは、イエスも墓の中の死んだラザロと同じ次元に生きていたわけです。イエスがラザロと共に死んでくださったので、イエスの呼びかけに応えることができたと言えます。
だとすれば、わたしたち人間が復活を生きるのは、イエスがわたしと共に死んでくださることを通してなのです。わたしがイエスの声を聞くのは、イエスがわたしと同じ墓に入ってくださるからなのです。同じ墓に入ってくださるイエスがおられて、わたしはイエスの声をきくことができる。
わたしが悩み苦しんでいたのは、墓に入れられていたということでしょう。わたしが人生において苦しむ世界は、墓の中のような世界です。誰も助けてくれない。誰も見向きもしない。諦めに支配されている。そのような世界にイエスは入ってくださって、わたしに声をかけてくださった。そのおかげで、わたしは墓から呼び出されて、生きることができるようにされた。これが、わたしがイエスと出会い、洗礼へと導かれた経緯です。
このようなイエスの力は、墓の中に働いています。死の中に働いています。イエスは死ぬことを通して、死の世界に働いてくださる。イエスの十字架は、わたしたちの死の世界に入ってくださった出来事。ご自身が死の中に入ってわたしを救ってくださる神の出来事が十字架なのです。このようなお方であるイエスは、決して嘘をつかない。真理であるイエスは真実のみを語ってくださる。
この11章の前の10章11節においてイエスはこのようにおっしゃっています。「わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。」と。その後の27節では、「わたしの羊はわたしの声を聞き分ける。」と言って「わたしは彼らに永遠の命を与える。彼らは決して滅びず、だれも彼らをわたしの手から奪うことはできない。」とおっしゃっています。つまり、この11章は、10章で言われていたイエスの羊であるラザロが永遠の命を与えられたことを語っているのです。ラザロがイエスの声を聞いたのは、イエスの羊であったからです。その声を届けるために、イエスはラザロの許に行った。ラザロが葬られている墓に行った。ここには、羊のことを心にかけているイエスがおられる。心をかけていただいている羊は、墓の中にいてもイエスの羊。イエスはその羊のために命を捨てるお方。
このように考えてみれば、わたしたちキリスト者がイエスの羊であるということは、イエスと共に復活を生きているということです。それまで捕らわれていた世界から解放された羊がわたしたち一人ひとりなのです。この羊のために命を捨てる羊飼いは、十字架の死によって、わたしたち死すべき人間と一緒に死んでくださった。わたしたちがキリストと共に死ぬ洗礼を設定してくださった。ラザロの復活は、わたしたちキリスト者の復活の先駆けです。
四旬節の間、わたしたちが見詰めたイエスの十字架は、わたしたちを起こすためにわたしたちを担ってくださったイエスの死なのです。死を通して生きる道を開いてくださったイエスの十字架。この十字架の先にあるいのちをわたしたちは信じて、歩み出すのです。復活のいのちへと歩み出すのです。捕らわれから解放されて、外へと歩み出す。
来週迎える聖なる週。主の十字架の道行きを共に辿る週。聖週間を過ごすことは、イエスがわたしのために一緒に死んでくださることを心に刻む週です。トマスが言うような「イエスと共に死のう」という出来事、いえむしろ、イエスがわたしと共に死んでくださる出来事を経験する週。その先にある復活を目指しつつも、まずはイエスがわたしのために死んでくださることの意味を心に刻んで歩みましょう。死の先にあるいのちは、死を通らなければ与えられないということを忘れてはなりません。死を通らない復活はない。苦難の先に光が輝く。使徒パウロの言うように「あなたがたを襲った試練で、人間として耐えられないようなものはなかったはずです。神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます。」ということです。「逃れる道」とは「出口」のことです。出口があるのだとパウロは語っています。イエスの十字架の死は、いのちをうちに宿している死。いのちが目覚める死。いのちの復活への死。死の向こうにいのちがある。
イエスと共に死ぬ信仰を通して、わたしたちは解放され、自分のいのちを喜ぶことができるのです。自分のいのちのうちにキリストのいのちが生きていることを信じて生きる。これがキリスト者の生です。パウロが告白したように、わたしたちもまた、わたしのうちにキリストが生きておられると告白しながら、歩んで行きましょう。あなたのいのちは、キリストの死の中にあるいのち、復活のいのちなのです。
四旬節の暗いトンネルのような歩みを誠実に辿っていくならば、かならず出口がある。この信仰のうちにこれからの一週間も喜びをもって生きていきましょう。

