「神の喜びに生きる」

2026年4月3日(聖金曜日)
イザヤ書52章13節−53章12節、ヨハネによる福音書19章17節−30節

他者の労苦、苦しみによって救われるということは、その苦しんだ人にすべてを負っているということです。たとえ、その人が死んだとしても、その死がわたしのすべてを抱えているのです。イエス・キリストの十字架の死は、わたしたち救われた者すべてをご自身の御腕に抱えてくださっているということです。

イエスさまの十字架の下にいた人たちは、このことを実感したでしょうか。実感した人もいれば、実感しなかった人もいます。兵士たちは、ただ自分の仕事をしていただけでしょう。イエスさまの衣服を分け合っていただけです。イエスさまの十字架の下にいた女たちと愛する弟子。彼らは、イエスさまの十字架の苦しみの姿を見ています。その死を見ています。それでもなお、彼らが見たのはイエスさまの死であって、自分の死ではありません。イエスさまが死んだだけです。彼らが、このイエスさまの十字架の死によって抱えられていると信じるようになったのはいつからでしょうか。イエスさまの死を、かつてイザヤが預言した言葉が成就したのだと理解するようになったのは、イエスさまの死の後、ご復活のイエスに出会ったことからでした。

人は、他者の死を他者の死としか理解しません。わたしは死ななくて良かったと思うだけです。他者が苦しみの中にあるとき、わたしは「こんなにならなくて良かった」と思うものです。このようなとき、わたしは他者とわたしを比較しています。もちろん、女性たちと愛する弟子は、イエスさまの死を見て、「こんなにならなくて良かった」などとは思わないでしょう。信頼していたお方を失った悲しみに沈んだことだと思います。それでもなお、イエスさまの死はイエスさまの死であって、わたしの死ではありません。では、イエスさまの死を自分のこととして受け取るのはどのような人なのでしょうか。

わたしたちは、自分が苦しむことになったとき、あの人が苦しんだことはこのようなことだったのかと理解するものです。自分が経験してはじめて、同じ苦しみを理解するのがわたしたち人間です。預言者イザヤが語っている言葉は、イザヤ自身も苦難を経験し、神のしもべが苦しんだ姿に自分を見ている言葉でしょう。その言葉の中には「主の望まれることは、彼の手によって成し遂げられる。」と語られています。この言葉を語ったイザヤは、「彼の手によって成し遂げられる」ことを知ったのです。それは「主の望まれること」、原文では「ヤーウェが喜ぶこと」だったと知ったのです。

この「ヤーウェが喜ぶこと」を「彼(しもべ)は見るであろう」と述べられています。しもべはどこで見るのでしょうか。死の中で見るということです。これが、ヨハネによる福音書で語られていることです。「イエスは、すべてのことが今や成し遂げられたのを知り、『渇く』と言われた。こうして、聖書の言葉が実現した。」と言われています。イエスが「知った」と言われていますが、それは「見た」という言葉です。イエスは十字架の上で見たのです、「主が喜ばれること」を。それが、イエスご自身の死の中で見たものです。

わたしたちは、死の中に喜びを見ることはありません。死の中にわたしたちが見るのは悲しみであり、苦しみであり、絶望です。しかし、イエスが見ているのは「主が喜ぶこと」です。悲しみではない。苦しみでもない。絶望でもない。ただ「喜び」なのです。その「喜び」とはいったいどのような喜びなのでしょうか。わたしたちが思う喜びとは違うようです。自分が死ぬことの中に、喜びを見るということはどういうことでしょうか。もちろん、死を悲しみや苦しみや絶望として見るのは、死ぬ人本人ではなく、周りにいる人、残される人です。本人が死の中で何を見ているのかは、周りの人間には分からないのです。

イエスが見たのは、「主が喜ぶこと」です。それは、神さまのご意志に従って、「すべてが成就すること」です。それが自分の死であるということを見たのです。わたしの悲しみは主の喜びだと見た。わたしの苦しみも主の喜び。わたしの終わりは主の喜び。これが、イエスさまが十字架の上で見た、成就した事柄、「主が喜ぶこと」でした。イエスさまが見たのは、イエスさまの喜びではなかった。神さまが喜ぶことが見えた。

では、わたしたちは、死を喜ぶべきなのでしょうか。苦しみも悲しみも終わりも喜ぶべきなのでしょうか。使徒パウロが語っているように、キリストのゆえに苦しむことも神さまから恵みとして与えられている、という信仰があります。それは、神さまから与えられるものはすべて神さまの喜びであり、苦しみを与えられても神さまの喜びだということです。これを理解するのは、とても難しいことです。神さまが喜ぶと言っても、このわたしは苦しい。わたしは苦しいのに、神さまが喜ぶとはなんとひどい神さまだろうかと思う人もいることでしょう。しかし、神のしもべは、そしてイエスさまは、自分の苦しみの中に神さまが喜ぶことを見ているのです。神さまの喜びが、わたしの苦しみの中にあるということを見ているのです。

苦しみを喜ぶと言っても、苦しみの向こうに希望があるならば喜ぶとわたしたちは思います。苦しみそのものや死そのものを喜ぶことはないでしょう。まして、死の中にいるわたしは喜ぶどころではない。死んで花実が咲くものかと思う。このような価値観が支配している世界。それが、死が支配している世界です。死は絶望でしかないという世界です。

ところが、絶望にしても希望にしても、どちらであろうとわたしが絶望することであり、わたしが希望することです。わたしがどう感じるかということです。しかし、自分が感じることを越えて、イエスさまは神さまの喜びを生きているのです。イザヤ書が語る「彼は自らの苦しみの実りを見、それを知って満足する。わたしの僕は、多くの人が正しい者とされるために、彼らの罪を自ら負った。」という預言の言葉が語っているのは、しもべが見る実りは多くの人が義しい者とされていることだというわけです。つまり、他者が義しい者であるようにされるという神さまのお働きを喜んでいるのです。

イエスさまが息を引き取られたという言葉は「霊を引き渡した」という言葉です。神さまにご自身のすべてを引き渡したイエスさまは、「成し遂げられた」と最後の言葉を語っています。それは「成し遂げられたことを見て、満足する。」ということです。この満足は、神さまの喜びが成就したことを喜ぶことです。イエスさまの十字架は、わたしたち救われる者が義しく生きるための神の力だということです。救われる者もまた、神さまの喜びが成就した十字架を仰いで、感謝するのです。わたしにはできないことを成し遂げてくださったと感謝するのです。

しかし、感謝で終わるのではなく、イエスさまの苦しみにすべてを負っているわたしのいのちであることを改めて受け止めなければなりません。イエスさまの苦しみがわたしを抱えてくださっているので、生きていく力を与えられると、生きていくことです。イエスさまの苦しみをわたしたちは分からないとしても、抱えてくださっているイエスさまを信じているならば、力が与えられます。そして、生きていくことができます。イエスさまは、わたしたち信じる者が義しく生きていく姿を、神さまが喜ぶこととして見たのです。わたしたちが苦しみの中にあっても義しく生きていく姿こそが、神さまが喜ぶことだったのです。

あなたが苦しみの中にあるとしても、イエスさまはあなたが義しく生きる姿を見て、神さまの喜びを見ている。わたしたちが生きてくために、義しさを捨てるのではなく、苦しくとも義しさの中で立ち上がる姿を見ておられる。そのとき、あなたの中で、イエスさまの十字架が生きている。この信仰を起こされる人は、イエスさまの苦しみと死に抱えられているわたしを見た人です。

十字架は、この信仰をわたしに与えてくださる神さまのお働きなのです。この聖なる金曜日に集められた幸いを感謝して、十字架を心に刻みましょう。あなたのすべてを抱えてくださるイエスさまのお心とひとつになりますように。

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