2026年4月5日(主の復活祭)
マタイによる福音書28章1節-10節
「喜べ」とイエスは女たちに言います。新共同訳では「おはよう」と訳されていますが、原文では「喜べ」です。女たちは天使の言葉を聞いて、「恐れながらも大いに喜び」と記されています。「恐れと大いなる喜びをもって」墓を離れたのです。天使の言葉は、彼女たちには思いもかけない言葉でした。それで「恐れと喜び」が混在した心になっていた。その彼女たちの前にイエスご自身が現れて言うのです。「喜べ」と。
女たちが恐れていたのは、天使の言葉を信じられなかったからかも知れません。しかし、喜びも大きかった。つまり、不安と期待の中にいたということでしょう。彼女たちは、イエスの体がないことは確認しました。しかし、天使が言う「復活した」イエスを見てはいないのです。見てもいないイエスが生きていると伝えることができるのでしょうか。自分で経験していなければ他人に伝えることはできません。自分が本当かどうか分からないと不安を抱えているままでは伝えることはできません。そのような「恐れと喜び」の中にいた女たちに、イエスは現れて「喜べ」と言うのです。このイエスの現れと言葉がなければ、彼女たちは弟子たちに伝えることはできなかったでしょう。イエスは、真実を心から信じて伝えることができるように、女たちに現れてくださった。イエスを見せられたことと、イエスが語られた「喜べ」に励まされて、彼女たちは命じられたことを行ったのです。
女たちが伝えたことで、28章の終わりでは、弟子たちはガリラヤに行き、イエスに会うことになりました。しかも、時間指定もないままに「ただ山に登った」だけです。それなのに、イエスは弟子たちの前に現れてくださった。イエスの言葉に従うだけで、イエスはそこに現れてくださった。女たちを励ましたイエスの言葉。弟子たちに伝えられた女たちの真実の言葉。それが神の力の言葉であることを語っているのです。
わたしたちが誰かに伝える場合に、自分の経験していないことを、ある人が言っていたと伝えても、本当なのかどうか分からないことを伝えるわけですから伝わることはないでしょう。わたしが経験して、自分の体で受け取った事実だけが、人に伝わるのです。そのような意味では、わたしたちキリスト者は、キリストに出会い、キリストの言葉に導かれているのですから、他者に伝えることができるのです。わたしが受け取り、信じる者にされたキリストの言葉を伝えることができるのです。
女たちがイエスの復活を伝える役割を与えられたのは、彼女たちが「恐れと喜び」の中にいたからでしょう。恐れだけではなく、恐れの中に喜びがあったからです。イエスも天使も「恐れるな」と言っていますが、「恐れ」を否定しているわけではありません。人間である以上、思いもかけないことや経験のないことには恐れを感じるのです。その恐れを感じることは大事なことです。人間的な恐れは、不安と落胆へと導きます。一方、神から来る恐れは、喜びをうちに持っている恐れなのです。それは、正しく神さまを畏れることです。「主を畏れることは知恵の初め」と箴言1章7節にある通りです。「主を畏れる」ということは、神の前にひれ伏すということです。畏れ多いお方の真実を知ることによって、人間は神を畏れる者とされます。そのとき、わたしたちは神の言葉、神の出来事を素直に受け入れる者とされているのです。
女たちが抱いていた恐れは、神さまの出来事を畏れる心でしょう。そして、喜びは大きかった。それでも、自分では経験していないことへの不安も持っていた。そこにイエスが現れ、「喜べ」とおっしゃる。このイエスの言葉によって、女たちは力を受けている。彼女たちが主を見た経験をもって、弟子たちに伝えることができると、彼女たちは励まされた。
このような経験は、たびたび起こるわけではありません。むしろ、ただ一度の経験で十分なのです。その一度の経験が、いつまでもわたしを支えてくださる。そして、「喜べ」という言葉を思い起こし、喜びに満たされる。そのような経験をイエスは女たちに与えてくださった。彼女たちの生涯を支える経験となったのです。イエスさまは生きておられる。わたしの前に現れてくださった。「喜べ」と言ってくださったと、何度も思い起こしたことでしょう。そして、多くの人に伝えたことでしょう。経験したことは、伝えることによって自分の言葉、自分のものとなっていくのです。このような経験がある人は、強い。そして、神を畏れる人は謙虚にされます。
恐れの中にある喜びは、謙虚さと大胆さです。謙虚であるということは、自分を誇らないことです。恐れの中にある人は、自分を誇ることはない。自分が人から認められることや誉められることを求めない。ただ謙虚に事実を受け入れる。受け入れた事実に基づいて、真実を語り、大胆に喜んで生きる。
彼女たちは、与えられた役割を担うことができるかどうかは考える余裕もなかった。担うことができるかどうかを恐れる心も起こったことでしょうが、それ以上に大いなる喜びがあった。その喜びに従って行こうと進んで行く道に、イエスが現れる。「あなたがたが抱いている大いなる喜びを喜べ」とおっしゃった。「恐れがあることもわたしは知っている。しかし、恐れるな。喜べ。そして、弟子たちに伝えよ。ガリラヤへの行くように。」とイエスはおっしゃったのです。女たちは、伝えることによって、イエスが生きておられることを自分のいのちの中心に据えることができたのです。
わたしたちの人間的な恐れは、これからどうなるか分からないということを恐れます。ありもしないこと、起こってもいないことをいろいろと考えて、恐れます。その恐れを自分で取り除こうと、いろいろ対策を考えることも起こります。しかし、起こってもいないことをどれだけ心配し、恐れても意味がない。起こったときに、起こったことを受け止めて、神さまのご意志を祈り求めれば良いのです。それが真実に神さまを畏れることです。自分に起こったことが神さまの出来事であると受け入れるということは、神さまを畏れることです。神さまの前に謙虚にひれ伏すことです。そのとき、「喜べ」とのイエスの声が聞こえるでしょう。
担えないと思うことがあったとしても、神さまが与えてくださったことと受け取り、引き受けて行くならば、神さまはあなたの恐れの中に喜びを満たしてくださる。イエスが「喜べ」とおっしゃったように、あなたは喜び仕えることができようにされる。自分のような者でも用いてくださるお方がいるという喜びも起こってくる。起こってきた出来事は、神さまがあなたに担うように目の前に起こしてくださった出来事なのです。神さまのご意志がそこに宿っている出来事なのです。逃げないで、引き受けるとき、神さまのご意志がなっていく。
イエス・キリストがゲッセマネで祈られたように、「父よ、わたしが飲まないかぎりこの杯が過ぎ去らないのでしたら、あなたの御心が行われますように。」と祈るならば、神さまのご意志によってあなたは守られるのです。わたしたちに起こってくることはすべて神さまがご自身の善きことのために起こしておられる。そう信じる信仰こそが、わたしを支えるのです。それはまた、イエス・キリストの復活が語っていることなのです。
復活したイエスは「喜べ」とおっしゃる。イエスの復活は「喜べ」という出来事なのです。あなたが不安であっても「喜べ」。あなたが恐れていても「喜べ」。あなたが力無く、倒れていても「喜べ」。あなたが誰かに陥れられても「喜べ」。あなたを迫害する人がいても「喜べ」。あなたを排除しようとする者がいても「喜べ」。イエスは如何なるときにも「喜べ」と命じてくださる。
わたしたちの喜びは、イエスの命令の言葉なのです。イエスが命じるがゆえに、わたしは「喜ぼう」と喜ぶ。イエスが命じるがゆえに、わたしは引き受ける。イエスが命じるがゆえに、わたしは事実をありのままに受け入れる。そこにイエスの「喜び」の力が働くのです。わたしたちは「恐れる」。しかし、「恐れるな」とイエスはおっしゃる。わたしたちの不安と否定の中で「喜べ」とおっしゃる。イエスの「喜び」が響き渡る。イエス・キリストの復活は、このイエスの喜びを生きるようにと、わたしたちに与えられた出来事。イエスと共に喜び生きるあなたのうちに、復活のイエスが生きておられる。
「喜べ」との御声に応えて、喜んで生きていきましょう。主のご復活、おめでとうございます。

