「心に火をつけて」

2026年4月19日(復活節第3主日)
ルカによる福音書24章13節-35節

心は燃えるのでしょうか。火をつけられて燃える心とはどのような心でしょうか。それまで燃えていなかった心。暗く沈んだ心。その心に火をつけてくださるために、イエスさまは現れてくださる。

今日の福音書では「心が燃えた」と訳されていますが、「心に火をつける」ということです。いつ火をつけられて燃えたかと言えば、イエスさまが二人の話に割り込んできて、聖書を紐解いてくださったときです。心に火をつけられた人はどうなるのでしょう。彼らは起こった出来事が心萎える出来事だったと落胆して、エマオへの道を歩いていたのです。心萎えた二人は、イエスさまだとは分からず、同じように旅をしている人だと思った。でも、その人の話してくれた言葉を聞いているうちに、心に火がつけられ、燃えてきた。聖書を正しく理解することによって、彼らの心は燃えたのです。

その正しい聖書の理解というのは、メシアが苦しむことは必然であるということでした。苦しまないメシアはいないということは、苦しむことが救いの入り口だということでもあります。神さまのお心に従って、メシアは苦しむのです。神さまのお心に従うことは、楽な道ではない。苦しい道です。それでも、苦しみを引き受けて生きるとき、すべては神さまのご意志に従ってなっていくと信じることへと心が開かれていく。イエスさまは、弟子たちが神さまのお心を信頼することができるように、聖書の本当の意味を教えてくださったのです。

聖書は、弟子たちの現実とかけ離れたものではなく、弟子たちが置かれた現実の中に神さまが働いていると教えている。この真理に導かれたとき、弟子たちの心に火がつけられ、燃えた。心が燃えるという事柄が語っているのは、活き活きとした心になったということです。活き活きと生きるようにされたことが、心が燃える出来事だったのです。それはまた、弟子たちの期待とは裏腹の出来事であっても神さまの働きとして受け取ることができる信仰の働きだったのです。

わたしが神学校を卒業して、牧師の任用試験という試験を受けたときのことです。試験官である教区長たちのうちの一人の方がこんなことを聞いてきました。「あなたはどのような教会を作りたいですか。」と。わたしはこのように答えました。「一人ひとりが活き活きとした教会であって欲しいと思います。」と。すると、その教区長はまたこう言いました。「お年寄りが多い教会でそれができますか。」と。「いえ、先生、わたしは活き活きした一人ひとりであることは、もちろん、お年寄りになったとしても可能だと思います。元気に何でもできるという意味ではなく、神さまのいのちを喜んで生きるということだと思います。」と。

心に火がつけられ、燃えるということも、わたしたちは燃えて、エネルギッシュに何でも行うというように思ってしまいます。しかし、今日の二人の弟子たちは、心が燃えたのに、イエスさまのお話をもっと聞きたいと思って、「一緒にお泊まりください」と願いました。「よおし、イエスさまを殺した奴らをやっつけにエルサレムに戻ろう」などとは思わなかったのです。心が燃えて、みことばをもっと聞きたいと思った。これは信仰が起こされたことでもあるでしょう。そのときには、もっとイエスさまのお話を聞きたいと思い、みことばを聞くことによって心が深く息をするようになるのです。心に、たくさん空気が入ってきて、火がさらに燃え上がる。今まで、息苦しい中で暗くなっていた弟子たちが、深く息をする心にされ、活き活きしてきた。

そのようにされたとき、わたしたちは平穏に生きることになります。今のわたしを喜び、わたしが置かれた苦しい状況も喜んで引き受けることになる。このようにされるとき、わたしたちの心には火がつけられ、燃やされているのです。いかなることが起ころうとも、神さまのご意志があって起こっていると受け止める。受け止めて、引き受けて生きて行く。耐える力も与えられる。引き受けない人は、聞く耳を持たない人です。そして、聞く耳を持たないならば、耐える力も与えられません。「あの人が悪い。」、「あんなことをするから、こんなことになってしまった。」と他者を批判するだけです。その他者を無き者にすれば、自分は胸がスーッとすると思う。そのような人は、起こった出来事を引き受けてはいないのです。他人の所為にしているだけです。

わたしには到底無理だと思うときにも、引き受けてみようと思うならば、必ず神さまの支えと導きがあります。これは引き受けなければ経験できないことなのです。イエスさまの十字架は、イエスさまが「御心がなりますように」と引き受けられた。それは、自分のためになることではなく、他者のためになることでした。わたしたちが引き受けるというときにも、他者のために引き受けて生きることになるのです。

二人の弟子たちの前から見えなくなったイエスさまは、どこに行ったのでしょうか。それは分かりません。二人の弟子たちに現れる前には、おそらく、ペトロのところに行って、現れてくださっていた。そして、この二人と同じように、心を燃やしてくださったのでしょう。二人もすぐに、エルサレムに戻って、他の弟子たちに伝えました。そして、ペトロや他の弟子たちも心燃やされて、活き活きと生きることに導かれていった。

イエスさまの復活は、弟子たちを活き活きと喜んで生きる者に変える復活だったのです。彼らの心に火をつける復活だったのです。その炎は、聖霊降臨のときには、もっと多くの人たちに広がっていった。弟子たちが活き活きと喜んで生きている心の火が人々に点火されていった。そのはじめには、このエマオ途上でのイエスさまの説教があったのです。イエスさまの説教が、弟子たちを励ました。自分たちに起こったことを引き受けて生きるようにさせた。それが聖書のみことばの力だったのです。神のことばは、わたしたち救われる者には神の力です。神さまが、わたしを生かし、喜び生きるようにしてくださる。その際、今日の二人の弟子にイエスさまが最初におっしゃったようなお叱りの言葉が語られることも必要なのです。

「ああ、物分かりが悪く、心が鈍く預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち」とイエスさまは二人の弟子たちを嘆いています。「あなたがたは物わかりが悪いねえ。」、「あなたがたの心は鈍いねえ。」、「聖書を読んでいるのかなあ。」、「預言者たちの言葉を信じていないのかなあ。」、「ああ、鈍い人たちだなあ。」とイエスさまはおっしゃった。この叱責の言葉があることで、二人は自分たちの心が鈍く、物分かりが悪い自分であることを確認したのです。彼らは、素直にイエスさまの言葉を聞いたのです。現代ならば「何、俺たちが何も分かっていないとでも言うのか、ひどいじゃないか。」と怒り出す人もいるでしょう。「心が鈍いなんて、ひどい。傷ついた。」と言う人もいるかも知れません。炎上騒ぎになるでしょうね。しかし、この二人は、叱責の言葉を素直に聞いて、心を開いた。それで、心に火がつけられ、燃え始めたのです。この人たちは選ばれている人ですね。素直に聞くことができる人です。何事にも耳を傾ける人。学ぶ姿勢を持っている人です。

わたしたちキリスト者は、誰であろうと、キリストの説教を喜んで聞く人です。神の言葉を喜んで聞いて、喜んで生きる人です。たとえ、わたしの罪を指摘されるとしても、喜んで聞くのです。神さまの言葉はわたしを義しい道に導いてくださると、喜んで聞くのです。そのような人と共に、イエスさまは歩いておられるでしょう。道々、「今日のあなたは物分かりが悪かったねえ。」というイエスさまの言葉を聞くかも知れません。そして、聖書を開き、読んでみるでしょう。そのとき、あなたの心は燃えている。神さまのみことばの火をつけられて燃えている。

心に火をつけてくださる神さまの言葉が、あなたを喜び生きる者にしてくださる。神さまの言葉、キリストの説教を聞いているあなたは、神さまのいのちを活き活きと生きる者とされていきます。イエスさまのみことばがあなたの心に火を付けてくださいますように。イエスさまが、あなたと共に道を進んでくださいますように。

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