2026年5月3日(復活後第5主日)
ヨハネによる福音書14章1節-14節
イエスさまは「道」、「真理」、「いのち」とご自分のことをおっしゃっています。「道」というのは、目的地に行くためにあるものです。「真理」というのは、隠れなく生きることです。「いのち」というのは、すべてを生かしている根源的いのちのことです。イエスさまという道を通って行けば、隠れなく生きることができる真実のいのちに辿り着くとおっしゃっているのです。これは、先週の羊の門を通って牧草にありつくことと同じです。
弟子のフィリポは、イエスさまのこの言葉を聞いて、「わたしたちに父をお示しください。」と言っています。それは、道を通って辿り着く目的地である父なる神さまが示されるならば、そこに向かうことができると考えたからです。それに対してイエスさまは「わたしを見た者は、父を見たのである。」と応えています。つまり、イエスさまをまっすぐに見なさいとおっしゃる。父なる神さまは、地上のわたしたちには見えないお方。そのお方がどのようなお方であるかを知りたいのであれば、イエスさまを見なさいということです。道であるイエスさまを見ているならば、辿り着くところである父なる神さまが見えるとおっしゃったのです。
道というものの先には辿り着くところがあります。道は辿り着くところとつながっている。だから道と辿り着くところとは一つです。その道であるイエスさまは父なる神さまの許からこの世に派遣されたのですから、父なる神さまはイエスさまという道を作ってくださったのです。神さまはご自身のところからイエスさまという道を開いてくださった。道であるイエスさまが父なる神さまに辿り着くための道です。だからイエスさまは9節でおっしゃっています。「わたしを見た者は、父を見たのだ。」と。
このようにおっしゃるイエスさまは、ご自身の十字架の死は神さまの許に辿り着くための道であることを知って欲しいのです。イエスさまが神さまの許に帰ったとしても、道は消えません。イエスさまが通った道は消えません。誰でも、その道を通ることができるのです。わたしたちキリスト教会が十字架をしるしとしているのは、いのちに至る道は十字架の道だということを伝えるためです。十字架の死を通っていのちに至る。この道を伝えるのがわたしたちが掲げている十字架です。だからこそ、死を恐れる必要はない。死の向こうに、いのちがある。
イエスさまの言葉が示していることは、道と辿り着くところとが一つであるということです。「この道を通って行けば、目的地に着く」と信じているから、その道を行くのです。その目的地は、イエスさまの十字架によって確かにされています。わたしたちがイエスさまに従うということは、イエスさまが確かにしてくださった道を確認して進み行くことです。その通りに進んで行けば、イエスさまが辿り着いたところに到着するのは当然です。このイエスさまという道を進み行くことを信仰と呼ぶのです。
ヘブライ人への手紙11章1節には、こう語られています。「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。」と。「望んでいる事柄」とは、望み見ている事柄のことです。わたしたちの歩む道の先にある事柄が「望んでいる事柄」です。この事柄を確信するということは、その事柄に向かって進み行くことです。今は見えてはいないけれども、辿り着いて、見ることができることを確認するのです。その確認はイエスさまの十字架において確認することです。だからこそ、わたしたちは十字架を仰ぐ。だからこそ、わたしたちは自分の十字架を取る。そして、イエスさまに従う。その際に、イエスさまがおっしゃるように「自分を捨てる」ことが最初に必要なことです。それは、自分の思い込みや思惑、そして自分に都合の良いことを求める自分を捨てるということです。そうしてこそ、神さまが見せてくださる「望んでいる事柄」を確認することができるのです。
わたしたちは、自分で確認するのではないのです。神さまの力によって確認するのです。それが聖霊の働きです。聖霊は、イエスさまの言葉と一緒になって働くお方です。聖霊によって、わたしたちは自分の理性によってではなく、神さまが開いてくださる理性によって、「望んでいる事柄」を確認するのです。この確認は、自分を捨てている人にしか与えられません。自分の思惑や都合を優先する人には確認できないのです。なぜなら、自分が優先されているからです。自分を捨てていないからです。わたしが守ろうとしているわたしという存在が神さまによって造られたことを受け入れてないからです。そのような人は、結局、自分の都合の良いようにすべてを動かそうとします。周りを動かして、自分の世界を作って行くのです。このような人は、信仰者の世界にも紛れ込んでいます。どこかの国の指導者のように、その人が進み行く道は、イエスさまという道ではなく、自分という道です。自分が切り開いて行く道を進んで行くと思っています。神さまが確定してくださっている道を進み行くことはないのです。神さまの道から外れているのに、神さまに従っていると思い込んでいる。そのような人は、終わりの日に「裁きの復活」に与かるとヨハネによる福音書5章29節で述べられています。
一方、「いのちの復活」に与かる人もいます。その人は、イエスさまという道を進み行く人です。周りがどのように動こうとも、イエスさまだけを見ています。周りが上手く立ち回っているように思えるときでも、イエスさまだけを見て、その道を進み行くでしょう。しかし、その人はイエスさまの十字架の先におられる父なる神さまを見ていますから、イエスさまが帰って行く父なる神さまの許へと辿り着くのです。
そのように生きる一人ひとりに、イエスさまは最後におっしゃっています。「わたしの名によってわたしに何かを願うならば、わたしがかなえてあげよう。」と。イエスさまの名によってイエスさまに願うということは、イエスさまご自身が辿り着いているところを信じているから願うのです。イエスさまと父なる神さまが一つであると信じているから願うのです。そのような人には、イエスさまが辿り着いた父なる神さまの懐からすべてのことが与えられる。
父なる神さまの許にすべてがある。イエスさまという道を通って進み行く人は、すべてを持っておられる神さまに信頼していますから、与えられるものはすべて神さまのご意志に従って与えられます。だから、何も不足することはないのです。イエスさまは、わたしたちに必要なものをご存知ですから、与えてくださる。わたしたちはこのお方に信頼していれば良い。これが、イエスさまという道を通って進み行く信仰です。
では、この信仰を持っているのは、どのような人なのでしょうか。イエスさまの言葉を聞いている人ですが、その人はどうしてイエスさまの言葉を聞いているのでしょうか。イエスさまの羊だからです。その人は、どうやって、イエスさまの羊になったのでしょうか。自分でなったわけではありません。必然的にそうなっているのです。だとすれば、イエスさまの羊とそうではない羊とがあって、変わりようがないということなのでしょうか。それはわたしたちが決めることではありません。わたしはただ聞こえ来た羊飼いの声に従えば良いのです。
イエスさまの羊である人は、イエスさまという道に従って進み行くだけです。その歩みに踏み出すということは、最後の最後にわたしが裁きの復活に与かるとしても、そこにはイエスさまがおられると信じるのです。それが、自分が信じて歩み出した道であるイエスさまという道を最後まで信頼し続けることです。上手く行かないように思えてきたとしても、信頼して歩み続ける。それがイエス・キリストが歩まれた道です。その道が辿り着くところを明らかに示してくださっています。イエス・キリストが辿り着いた父なる神さまの許に生きるために、あなたは歩み始めているのです。この道を歩み続けるためには、イエスさまだけを見て、一日一日をただ歩むことです。あなたが今歩んでいる道はイエスさまが歩かれた道。父なる神さまのところに辿り着く道。あなたに開かれた道を信頼して進み行きましょう。

